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休職期間の記録⑧いつから鬱で、どこまでが鬱か。/セルフケアと娯楽の習慣化


いつから鬱で、どこまでが鬱か


自分はどのタイミングから鬱だったんだろうと考えることがある。

診断を受けるよりずいぶん前から記憶力や脳機能の低下は自覚していたし、できていたことができなくなっていて、脳過労のせいだなと感じていた。

それに、転職する前に福祉の現場で働いていたときも、やたらともの悲しくなって、勤務時間中に人に見られない場所で泣いたりしていたことがあったのを、休職してから思い出していた。

人との関わりのなかで敏感にトゲを感じて、人といると疲れてしまいやすい性格なんかは、たぶん生まれ育った家庭環境の影響も強い。虐待を見てきたこと、暴力を伴う喧嘩がよくあって家で落ち着いて過ごせなかったこと、勉強をしていないと怒られたり、時には泣かれたりしていたことなんかは、もう養育者が亡くなった今でも、自分のパーソナリティに影響してるな~と思う。

普段から、結構元気なときにしか4~5人以上の集まりを安心して楽しめなくて、プライベートでは信頼できる人との少人数での関わりを好むところが以前からあった。

「いまは鬱だから疲れやすい」とか、「鬱だから人との関わりがしんどくなってしまうんだ」と思う一方で、「いや自分は元からそういう人間だったよな」って思うこともある。

自分はいつから鬱だったんだ?
どこまでが鬱で、どこまでが自分の性格なんだ?
っていうことを、時々考えている。答えは出ないけど。


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前にもどこかで書いたけれど、先日、大阪の狭山市の図書館で、水谷緑さんの「私だけ年を取っているみたいだ」というヤングケアラーの人生を描いた漫画をたまたま見つけて、強く引き込まれた。依存症患者やその家族に対してもそうだけど、ヤングケアラーの物語にも、やたらと感情移入をしてしまうところが僕はある。


僕は家族の介護をしながら育ったわけでも、幼い弟や妹の面倒を見ていたわけでもない(末っ子だし、育て親である祖母も、メンタルがしんどくなってたまに寝込むことはあっても、体は基本的に元気で介助を必要とはしてなかった)。部活もできていたし、恋愛も人並みにしてきた。

だけど、感情の起伏が激しい家族のなかで育って、暴言や愚痴なんかを自分が受け止めないといけないような感覚があって、受け止めたからって変わるわけでもないのに、逃げることもできず、何もできない子供のころから、浴びるようにそれを受けながら育っていた。

祖母との二人暮らしの期間は、祖母の過剰な要求や期待にできる範囲で答えて、それに限界が来たら自分がしんどくなって、家出をしたりしていた。

ある知人が、昔、バイト先でよく感情的に怒ってくる上司がいて、「自分はこの人のケアをしている」って思いながら怒りを受けている。っていう話をしていたことがある。

身体的なケアをしたり、通院の付き添いなんかがなくても、怒りや不安定さを受け止めるだけでも相当なエネルギーがいるし、それもひとつのケアなんだろうなと思う。

どこかで、誰かの不安定さを受け止めるのが自分の役割だと思うようになっていったんだろう。だから、臨床心理学を勉強して、ケアの仕事をしてきた。そのことは結果的に自分を救うことにもつながって良かった面も多い。

一方で、ダンスにはまるとか、誰かのライブを見に行ったりとか、好きなゲームに没頭したりするような、自分がワクワクすることに夢中で取り組むようなことに、あんまり価値を感じられない人間になっていたなあと思う。

僕自身も、脆い人間だっていう自覚があったから、セルフケアになるような山登りとか、カフェや旅行なんかはよくしてきたけど、どこか、仕事での疲労を癒すリフレッシュが目的だった気がする。

それ以外の余暇の時間の使い方といったら、何かの役に立つかもしれない読書とか勉強とか、ちょっとでも人の役に立てそうなボランティアなんかが多かったなあと、これまでの生き方を振り返っていた。

(いや、旅は、純粋に好きでやっていたか。旅行とか、おいしいもの食べるとかは、純粋に好きでやってたな。映画や漫画もよく読んでいたし、例外も結構あるかもしれないな。)

純粋に自分自身の快楽を得られるような夢中になれることが少ないことを悪いことだとは全然思ってないんだけど、うつになってみて、他の人の生き方を見た時に、純粋に自分がテンション上がることにたくさん時間を割いていて、そういうことを自然とできてる人も多いよなあ、なんてことを思った。いつも好きなアーティストの音楽を聴いていたりとか、アイドルのおっかけをしていたりとか。

そういう人って、結構元気だ。


じゃあ、自分も真似したらいいのかも。


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セルフケアと娯楽の習慣化


自分が快楽を得られることを自然に行うっていうのは、たぶん普通のことで、(なんだか言葉がこんがらがってややこしいけど)阪神ファンの人が当たり前のように毎日野球中継を見てたりするし、好きな小説家の本が出るたびに必ず買う文学好きの人とか、給料が出るたびに新しいボードゲームをする人もいる。

僕はそういう人を見て、うらやましいなあとか、自分にもそれくらい夢中になれるものがあればいいのになあ、なんて思うけど、自分が好きなものに時間を使っていたら、「こんなことしてていいんやろうか、もっとやらなあかんことあるんちゃうか」って思っちゃいがちだ。(阪神ファンって言葉を書いてからなぜかだんだん関西弁になってる。ここから関西便のイントネーションで読んでください。)

いや、でも、そういう時間って自分が元気でいるために絶対大事で、それをないがしろにしてたから、鬱になってもうたんやろうなって今では思う。

じゃあ、無理やりにでも、好きなことを1週間のスケジュールに組み込むとか、心から楽しめて没頭できる漫画を読んだり、映画を見るようにするとかして、そこを習慣化というか、義務化してみるくらいのことはしてもいいのかも。年に数回は好きなアーティストのコンサートに行くとか。


とりあえずは、マッサージを定期的に行くのと、カブを先月買ったから、カブで行ったことない場所に出かけることは、積極的にやっていこう。自分一人でやってきたウクレレをどこかで習ってみるのもいいかもしれない。


こうやって文章を書くことも、案外、自分にとっては没頭できて、快楽を得られていることなのかもしれないなあと思うけれど。

まとまらない終わり方になってしまったけど、今日はこの辺にしておきます。最後まで読んでくださってありがとうございました。


たまには遠くを眺めてぼーっとしようね。