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ウッディが主人公の、わたしたちの物語

トイ・ストーリーはウッディが主役の物語だけど、
この映画の本当の主役はわたしたちの方なんじゃないか。



大好きなシリーズの最新作『トイ・ストーリー4』を観終えた直後、わたしは混乱していた。
この映画をどういう気持ちで受け止めれば良いのかが分からなかった。もっと素直に書けば「面白かった」とニコニコして言えなかった。だけど決して「つまらなかった」訳ではない。

勝手なことを言えば、自分の望む『トイ・ストーリー4』では無かったのだと思う。

思い当たる節は色々あった。
1〜3で描かれていた、かわいいおもちゃたち同士の友情、ハプニング、そしてみんなで協力して問題を解決!おもちゃだからこその悩みもあって切ない気持ちにもなるけれど、どきどきワクワクする展開、4もそうだろうと勝手に思い込んでしまった。

今作は最初から最後まで胸が苦しかったのだ。おもちゃとして抱える悩み、想定できる未来、苦悩、葛藤、そういったものが小出しにするのではなく一斉に解き放たれていた。

シリーズのラストとしてふさわしかった『トイ・ストーリー3』のさらに続編って一体何を描くんだろうと思っていたところに、これだ。わたしの思い描いていた4では無かった。だから混乱した。


けれど観終えてから一週間、色々考えた結果これ以上ない終わり方だったのかもしれないなあと思えるようになった。

ウッディを通しておもちゃたちが主役の物語を観ていた1〜3に対し、4はわたしたち人間の物語だったのかもしれない。


(以下、ネタバレ含みます)



ゴミから生まれたおもちゃと壊れていたおもちゃ

4の新キャラクターとしてメインになっているのが幼稚園のゴミ箱に捨てられていたものでボニーが作り出したフォーキー。彼は自分がゴミだという認識を持っていてすぐにゴミ箱の中に入ろうとしてしまう。しかしボニーにとっては大切なおもちゃだ。
その対比として描かれているのが初めから壊れていたお人形のギャビー・ギャビー。内蔵されているボイスボックスが故障しており喋る事が出来ない。そのせいで一度も子供から愛された経験の無いおもちゃ。

おもちゃとして生まれてきたギャビーよりも、ゴミから作られたフォーキーの方がおもちゃとして子供に愛されている。
この対比があまりにも残酷で辛い。

ギャビーはアンティークショップにいる。子供部屋や幼稚園、ゲームセンターやおもちゃ売り場ではなく、アンティークショップ。そこに子供はどれくらいくるのだろう。アンティークショップでおもちゃを買う大人はどれくらいいるのだろう。

3ではアンディが自分はもう遊ばないから、とボニーに自分のおもちゃを譲るところで終わる。
では、フォーキーの未来は?おもちゃは譲られていくことがあるかもしれないけれど、ボニーがゴミから作り出したフォーキーにその未来はあるのだろうか。



おもちゃだって未来を選ぶ

いまの世の中は消費社会だ。携帯ゲームは課金制がほとんどで基本プレイは無料のものも多い。少しやってみて飽きたらアンインストール。指1本で簡単に出来てしまう。
おもちゃだってそう。クレーンゲームで取ったぬいぐるみは全部手元に残っている?友達から貰ったぬいぐるみマスコットはどこにある?

トイ・ストーリーは大好きな作品で観終えたあとは自分の周りのおもちゃたちを拭いて大切にしたくなるのだけれど、一方で手元に置いておけなくなった時にトイ・ストーリーを思い出すと辛いのだ。

そんなわたしたちに対し「遊ぶ」「捨てる」以外の選択肢をピクサーは提示してくれたような気がする。

ラストのウッディの選択を、わたしは最初もやもやした気持ちで観ていた。「気持ちは分かるけど、これじゃあウッディがボニーを裏切ったようにみえるよ」と。そうかもしれない。ウッディがいなくなったと気が付いた時、ボニーは泣いて悲しむかもしれない。ウッディが子供を悲しませる選択をするところなんて見たくない。
だけどそこで冒頭のボー・ピープの台詞を思い出す。

「どうせ子供は毎日おもちゃを無くすものよ」

ウッディは多分、分かっていた。アンディが一番大切にしていたおもちゃだからといってボニーもまた同じようにウッディが一番大切だという訳では無いことを。

だからこそウッディはギャビーにおもちゃとしての幸せを譲ったのかもしれない。アンディの元にいるウッディだったらきっとギャビーにボイスボックスを譲る決心なんてしなかったんじゃないだろうか。

子供がおもちゃを選べるように、おもちゃも自分の生き方を選べたっていいじゃ無いか。遊ばなくなったおもちゃが、捨てるはずだったおもちゃが、どこかでこっそり動いているかもしれないと思えたら、それで心がちょっと軽くなるひとだっているんじゃないのかな。



ウッディの"幸せ"の変化

ウッディの幸せは「子供に遊んでもらうこと」だった。
ところが4のエンドロールではウッディが子供と遊んでいる描写が描かれていない。

ウッディはダッキー&バニーやボーと共に他のおもちゃと子供を繋ぐ架け橋のような存在になっていた。まるで、おもちゃ界のOB!

自分が子供に遊んでもらうというおもちゃとしての幸せよりも子供達がおもちゃで遊んで幸せになる、そんな子供たちの幸せをウッディは選ぶようになったんじゃないのかなと思う。

だからこそ例えゴミから生まれたとしてもフォーキーをボニーの元に戻すために必死になったし、ギャビーに自身のボイスボックスを譲った。



ウッディのその変化に気が付いた時ようやく『トイ・ストーリー4』の結末を丸ごと受け止められたような気がする。ううむ、もう一度観たい。


もちろん辛いシーンばかりではなく、クスクスしちゃうシーンだって沢山あった。チョコプラが吹き替えを担当しているダッキー&バニーのテンポ良い掛け合いは面白いし、推しのレックスはフォーキーを見て真っ先に腕が長いことについて発言していて相変わらずキュートだし。

何よりもボー・ピープの存在!格好良くって可愛くって一気に大好きなキャラクターになった。



もちろん捨てずに済むのならそれに越したことはないけれど、どうしてもという場面は訪れる。そんなわたしたちに「捨てる」以外の可能性をトイ・ストーリー4は提示してくれたのかもしれない。ウッディがそれを証明してくれたんだ。

まずは部屋の中のおもちゃ達を抱きしめようじゃないか。

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