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本好きにはいろいろな種類の本好きがいる【その1】

 去年知人が「人の話を聴くとき、相手の話を聴いて自分が変化する可能性があることを受け入れていないと、ちゃんと相手の話を聴くことはできない」と言っていた。
(確かそんなふうに言っていた。思い違いをしていたらすみません)

 人と言葉を交わす。
会話のLIVE感っておもしろい。二度とその会話...その雰囲気で、その人とその状況でその話はできないと私は思っている。
会話には代替不可能性がある。どうしてその性質が生じるのだろう。

 今しかこの会話はできないことを、聞き手と話し手の双方が理解していること。
相手の心の中で、形を持たずにゆらゆらと存在する感情に、聞き手が触れようという意志があること。
形を持たないということはつまり、分かりにくいということ。相手の分かりにくいものを理解したいという積極的な気持ちがあること。
そして、話すことを通して自分が変わる可能性があることを、受け入れていること。

これらは良い会話になるときの条件になるかと思う。いい会話だったと思ったときの会話を振り返ると、こんな感じだったと思う。

 「理解したっていうが本当の意味で理解したのか?」みたいな話をし出すとどんどん話は横道に逸れるので、それについてはいったん端に置いておくが、
他者の概念的な話や、整えていく過程にあるような曖昧な話を理解できたときって、話を聞く前とその後では、違う自分になっている気がする。
今まで分からなかったことが分かったわけだから。
 その知人の話から気づきを得て、私は今違う自分に変化したのかと思うと、なんだか感慨深いものがある。

私は本好きにはいろいろな種類の本好きがいると思っている。

この文章を書き始めた理由

 この文章を書き始めた理由は、前回の記事、『今年の抱負は「注意深く生きる」』を書いた背景を文章にするときに、私の本との関わり方について整理すると説明がしやすそうだと思ったからだ。
 今回のテーマは本ではあるものの、前回の記事の補足を兼ねた記事と位置付けている。

※もしこの記事を読んで興味を持ってくださった方は、併せて前回の記事も読んでいただけると嬉しく思います。ただ、記事の中で能登半島地震に触れていますので、気分が悪くなる恐れがある方は、避けていただけますと幸いです。(リンク)

私は「本は紙派で人間派」

 私は「本は紙派で人間派」だ。
まずよくある話、紙派か電子派かはあると思う。私は断然紙。人と話すときオフライン派かオンライン派かでいったら断然オフライン派。
私にとってそこにあること、手触り、重さ、身体性はとにかく重要なことだ。
本の嵩張ったり、折れたり汚れたりする繊細ささえ、私にとっては愛おしいことだ。

 次に「本は人間派」については、勝手に私が考えた。まだ他の立場については言語化できていない。とりあえず今の所感を書いていく。

 前提として、私は人と話すことが好きなのだけれど、私にとって読書という概念の上位概念には、会話という概念があると思っている。
会話の一環として本を読んでいるところがある。
本を読んでいると他者のことも自分のことも、ものすごく意識する。
私にとって本は人。
もう少し定義を狭めると、気の合う友人。
さらに言えば、ゾッコンの作者の本に関しては親友であり、場合によってはもはや私自身であったりする。
ちょっとやばいことを言っている。
でもこれ以上深掘りをすると話が進まないので、詳しくはまた機会があれば、にしておこうと思う。

会話の一環として本を読むということ

 前回の記事のタイトルは、『今年の抱負は「注意深く生きる」』だ。
タイトルの通り、今年の抱負は「注意深く生きる」と表明したわけだけれど、それを考えるにあたり影響を受けた小説がある。

村上春樹の『スプートニクの恋人』

単行本の初版は1999年4月。
私は2022年の年末に初めて読み、その1年後、2023年の年始に再読した。

以下は着想を得た箇所の引用だ。

うまいとか下手とか、器用だとか器用じゃないとか、そんなのはたいして重要じゃないのよ。わたしはそう思うわ。注意深くなるーーそれがいちばん大事なことよ。心を落ち着けて、いろんなものごとに注意深く耳を澄ませること

村上春樹/スプートニクの恋人(単行本p.60)  

 私は彼の本の、人に教えを説く場面がすごく好きだ。
相手を諭すその言葉は、決して借り物ではなく、相手にきちんと伝えたいという意志が根底にある、丁寧に選ばれ紡がれたものだ。
著者から読者への愛情も、物語の登場人物の持つ愛情も、どちらも感じる。

 「注意深く」という言葉が私の頭に漂流してきて、私はその言葉にどんな意味が込められているかを考えた。
よく耳にする言葉ではある。
でも人にものを教える時に、彼女はどうしてわざわざその言葉を選んだのかを考えた。

脳内で、やってきた言葉と元々持っている言葉が交わされていく。
その時の自分の価値観、世間の現状とも照らし合わせる。それは今しかできない会話だ。
本との会話においても言える、代替不可能性。

繰り返し繰り返し言葉を交わしていくと、それらは馴染み、境界がなくなり、最後には私の中に取り込まれていく。
そして 「注意深く」という言葉は、私が今年大切にしたいこととして表出した。
そうして私は、読書を通して作り変えられた。

 話の筋は大体記憶している状態での再読だったのだが、新たに自分自身に変化が起きたことに私は驚いた。
これは再読というよりは、どちらかというと「再会」の方が、表現として適しているのではないかと思った。

「再会」だと思った理由をもう一つ

 直近ひと月で、私は意欲的にnoteを書くようになった。その源泉には、『スプートニクの恋人』のすみれが存在していると思う。

 彼女は、彼女が書いた文章の中でこんなことを述べている。

わたしはただ、書かずにはいられないから書いていただけだ。
 どうして書かずにはいられないのか?その理由ははっきりしている。何かについて考えるためには、ひとまずその何かを文章にしてみる必要があるからだ。

村上春樹/スプートニクの恋人(単行本p.191) 

さらにもう一つ、私が好きなところ。

 ここでとりあえずのテーゼ。

   私は日常的に文字のかたちで自己を確認する。
   そうね?
   そのとおり!

というわけで、わたしはこれまでずいぶんたくさんの量の文章を書いてきた。

村上春樹/スプートニクの恋人(単行本p.192-193) 

 書くことを通してものごとを考えるという話は、村上春樹の文章ではよく出てくる表現で、すみれのその性質はほぼ著者の性質そのものなのではないかと思っている。
これはあくまで私の個人的な感覚である。

その幸せを言語化するのが本当に難しかった。別にしなくたっていいのだけど、自分があれは一体なんなの?と改めて考えたいと言うのなら、言葉にする必要があると思う。

何かが私たちをどこかに連れていく。その何かの正体について考える。(考えるだけ)


 そしてこれは2023年の末、noteで私が書いた文章だ。執筆した時は全くすみれのことは意識していなかったのだけれど、もろに彼の作品から影響を受けているのが見て取れて、ちょっとびっくりしてしまった。

 私にとって文章を書くことは、何かについて考える行為だ。書き切ることで、仮初のものだとしてもその時の結論を出すことができる。

 古い作品だとしても、話し言葉ではなく固定された言葉だとしても、重厚な存在感を携えた言葉が心にやってきたら、そこではある意味で会話が生まれるのだと思う。著者の性質と自分の性質の親和性が高いほど、それは活発なものになるはずだ。

 私にはどうしても、本がただの紙切れには思えない。どうしてもそこに、人の存在の重さを感じる。
私は会話の一環として本を読んでいる。

さいごに

 人と言葉を受け取り合うことは、知らない自分と出会うことだと思う。
自分の新しい一面や本当の願いに気づく瞬間が生まれる。
 そのままではいられなくなる。
自分の願いを叶えてやりたくなる。
そこで起きる変化はもう、生まれ変わることといっても過言ではない。

 もしここまで読んでくださったひとがいるとしたら、せっかくだからいくつかお聞きしてみたい。
あなたはどんなふうに本が好きだろうか。
人と話をすることって、あなたにとってどんなことだろう。
他者から影響を受ける過程ってどんなものだろうか。

機会があれば、教えていただけると幸いです。

まるで続編があるかのように、タイトルに【その1】なんて付けちゃっていますが、もしどなたかのご意見を伺えたときは、タイトルをその2にしてまたnoteに残せたらいいなと思います。
未定も未定なのですけれどね。笑



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