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物事を本当に信じるということは —谷川俊太郎の詩「なくぞ」について—

 今回は、谷川俊太郎の「なくぞ」という詩について見ていきます。


   なくぞ 谷川俊太郎

  なくぞ
  ぼくなくぞ
  いまはわらってたって
  いやなことがあったらすぐなくぞ
  ぼくがなけば
  かみなりなんかきこえなくなる
  ぼくがなけば
  にほんなんかなみだでしずむ
  ぼくがなけば
  かみさまだってなきだしちゃう
  なくぞ
  いますぐなくぞ
  ないてうちゅうをぶっとばす


 この詩は平仮名で書かれていることから、語り手は幼い子供であることが推測されます。この子供は、「ぼくなくぞ」と凄み、自分が泣けば、雷を聴こえなくすること、日本を沈めること、神様を泣かせること、さらには宇宙をぶっ飛ばすことさえできるのだ、と語っています。しかし、実際には、人間には、これらのことはできません。このように、事実とは異なる主張をする語り手を、私たちは、一体どのように理解すれば良いのでしょうか。
 この語り手については、二通りの解釈ができます。一つは、語り手が、相手を脅すために、わざと誇張表現を用いているのだと考える解釈です。これは、語り手は、本当は、自分には、例えば「うちゅうをぶっとばす」ことはできないと分かっているけれど、あえて、このように凄んでみせているのだ、という読みに繋がります。しかし、このような解釈をしてしまうと、この詩は、全く面白くない、凡庸な作品になります。なぜなら、この語り手の面白さは、自分には何でもできる、「うちゅうをぶっとばす」ことさえもできる、と本気で信じているところにこそあるからです。となると、もう一つの解釈の方法は、まさに、この語り手は、「自分が泣けば何でも可能になる」というこの詩の内容を、本気で言っているのだ、というものになります。しかし、これはまだ、この語り手の特徴を言い当てたことにはなりません。では、この語り手の特徴とは、一体何でしょうか。それについて考えるために、一つの指摘をしたいと思います。
 その指摘とは、この詩の語り手の自信には、根拠というものがまるでない、というものです。語り手は、例えば、自分が泣いたら周囲の大人をおろおろさせることができた、などの成功体験をもとに、「自分が泣けば何でもできる」と言っているわけではありません。そのような成功体験があったのではないか、と想像をしたくはなりますが、実際には、作品にはそこまで書かれていません。だとしたら、この人物は、根拠のない自信を抱いているのだと言えます。ここに、語り手の、一つの徹底した姿勢を窺うことができるのではないでしょうか。
 つまり、こういうことです。この語り手は、大きな自信を抱く人物です。しかし、どんなに大きな自信でも、仮にそこに何らかの根拠を当てにする気持があったら、それは完全な自信とは言えず、徹底した一つの姿勢が反映されているとは言えません。しかし、この語り手の場合は、何の根拠もないのに、大きな自信を持っています。この自信は、だから、絶対的なものであると言えるのではないでしょうか。
 そう考えると、この語り手の特徴は、自分に対する信頼(つまり自信)を持っている、というところではなく、むしろ、何か一つのことを徹底的に信じ抜くことができる、というところにあるのではないでしょうか。つまり、「自分」という信頼の対象にポイントがあるのではなく、「信じる」という行為そのものにポイントがあるのです。根拠なく、一つの事柄を信じること。それこそが、物事を本当に信じるということである、この詩を読んでいると、そのような考えが浮かんできます。
 ここまで見てきたように、この詩の語り手は、一つのことに対して絶対的な信頼を寄せることのできる人物です。しかし、そのように一つの事柄を徹底的に信じながら、日常生活を送る、ということは、現実的には考えられません。なぜなら、生きていればいつかは挫折する、言い換えれば、自分には「うちゅうをぶっとばす」ことはできないということを思い知ることになるからです。しかし、この詩の語り手は、あくまで、自分に対して絶対的な信頼を寄せる人物として造形されています。だから、この作品は、語り手に日常生活がある、ということを予め想定していません。語り手は、作品の内容を語るそのわずかな時間だけ生きている、瞬間的な存在としてこの世にあるのです。ここでは、作品というものの架空性が活かされています。
 ともあれ、私たちは、根拠の全くない自信を持っているこの語り手の姿を見て、思わず笑い飛ばしてしまいたくなります。しかし、本当に何かを信じる、ということは、実は根拠がないままにその事柄を信じ抜く、ということなのです。根拠を確かめてから、やっとその物事を信じようとする私たちの方が、却って、信じる力において、この語り手よりも劣っているのだと言うことができます。

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