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石垣りん「ひとり万才」について —ひとり暮らしの寂寥—

  ひとり万才 石垣りん

  新年
  と言ってみたところで
  それは昨日の今日なのだ。
  別段のこともあるまいと
  寝正月を決めれば
  蒲団の衿のあたりから
  新年らしいものがはいり込んできて
  何となくそんな気分になってしまう。

  習慣とか
  しきたりとか
  常識とか
  それらは木や石でこしらえた家より
  何倍かがっちり仕組まれていて
  人間共の心の住居(すみか:引用者註)になっている。

  だから正月といえば
  正月らしい気分になり
  今夜は是非とも良い初夢を見よう、などと
  夢のような期待を
  自分にかけたりする。

  それ、
  それほどの目出度さで
  新年という
  あるような
  ないようなものがやってくる
  地球の上の話である。


 この詩は、新年にまつわる作品である。しかし、この詩の語り手は、新年を大々的に祝おうとしているわけではなくて、むしろ、新年というものは、あくまでも人間の「習慣」の中で生まれたものであり、実際のところは「あるような/ないようなもの」であると考え、それを疎んじているようだ。だが、それでもやはり、その「習慣」にしたがって、「良い初夢」を見たい、などと思ってしまう自分もいると、語り手は打ち明ける。つまり、語り手は、正月という「しきたり」を軽蔑しながらも、その行事にあやかってしまうという複雑な心境にいるわけである。
 以上が、この詩の内容であるが、これでは何のことだかさっぱり分からない。人間の「しきたり」の愚かさを訴える詩であるようにも思えるが、それにしては語り手自身もその「しきたり」にあやかろうとしていて、立場が矛盾しているように思える。
 このように、一見分かりにくい詩なのだが、タイトルに注目すると、一気に読み解ける。「ひとり万才」とあるように、これは一人暮らしの心境を謳った作品なのである。「万才」(バンザイ)とあり、一見、ひとりを喜んでいるように感じられるが、この「万才」は実は全く逆の意味を指していて、ここには本当は「ひとりは寂しい」という意味が込められている。要するに、一人暮らしの孤独を、ユーモアを交えて語る作品なのである。
 なぜそう言えるのか。それは、作品の内容について考えると分かる。語り手は、新年について、「あるような/ないようなもの」と言っている。新年が「ない」ものである、というのは、一人暮らしであるために、一緒に新年を祝う家族がおらず、その結果、華やいだ気分になる世間とは隔絶されているという状況を表している。語り手はまた、「新年/と言ってみたところで/それは昨日の今日なのだ。/別段のこともあるまい」と述べているが、これは新年を祝う相手のいない寂しさをわざと強がって隠しているのである。それでいて、「今夜は是非とも良い初夢を見よう、などと/夢のような期待を」かける自分自身もいるらしい。そんな自分自身を、語り手は、習慣というものは、「木や石でこしらえた家より/何倍かがっちり仕組まれていて/人間共の心の住居になっている」ため、仕方がない、とあえて言い訳している。
 このように、語り手の心には、新年を一緒に祝うことのできる家族の存在や経済的余裕などに憧れる気持ちがある。そのため、新年はただ「ない」(祝うに値しない)ものなのではなく、「あるような/ないような」、どっちか分からないものなのである。
 つまり、こういうことだ。作中で展開される、新年とは実際にはただのしきたりにすぎず、あるのかないのか分からないものだ、という理屈は、たしかに正しい。しかし、それ以前に、語り手は一人暮らしであり、経済的な拠り所がないため、そもそも新年を祝うんだか祝わないんだか分からない状態にあるのである。そこに、この作品のおかしみがある。
 以上より、この作品は、一人暮らしや貧乏生活の孤独を、ユーモアを交えて謳う作品であると言える。諧謔に包んではいるが、語り手の深い寂寥が感じられる詩である。
 なお、「万才」(万歳)という漢字には、現在の「漫才」の元となった、年の初めに当年の繁栄を祝い賀詞を歌って舞い、米銭を請う者の意味もある。「万才」は「バンザイ」と読むのか、「マンザイ」と読むのか判然としなかったため、今回は「バンザイ」と読んだ上で解釈した。

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