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偏りなく現実を見つめる —太宰治の小説「男女同権」について(再び)—

 以前、太宰治の「男女同権」という小説について解釈しましたが、今回は、この小説について、解釈し直したいと思います。
 この小説は、一人の老詩人が、「男女同権」というテーマの下に講演を行った、その講演の速記録という形を取っています。しかし、この老詩人は、世間一般で言う「男女同権」の主旨をまるで理解していなくて、本当は、「男性に対して、女性の権利を主張する」という理念であるのに、その逆の、「女性に対して、男性の権利を主張する」というものだと思い込んでいる、無智な人物なのです。なぜ、この老詩人が、「女性に対して、男性の権利を主張する」という、彼独自の意味においての、「男女同権」の講演を行おうと思ったかというと、それは、彼が過去に、数々の意地悪な仕打ちを、周囲の女性たちから受けてきたからです。そのような「女性の暴力」を摘発するために、彼は講演を行いました。だから、彼のこの講演は、いかに自分が女性からいじめられてきたか、という内容に終始しています。この小説の概要は、そのようなものです。ここから、この小説について述べていきたいと思います。
 さて、老詩人の語りの内容は、極めて変わっています。女性からいじめられたエピソードが多く繰り広げられるこの語りの、どこが変わっているかというと、そのエピソードの一つ一つの、輪郭がぼやけていて、どんな出来事が起こったのか、その実体を掴みにくい、という点です。しかし、この説明だけでは、何のことを言っているか分からないと思うので、実際に、作中のエピソードを、少し引用してみましょう。

  私が十歳くらいの頃の事でありましたでしょうか、この下女は、さあ、あれで十七、八になっていたのでしょうか、頬の赤い眼のきょろきょろした痩せた女でありましたが、こいつが主人の総領息子たる私に、実にけしからんことを教えまして、それから今度は、私のほうから近づいて行きますと、まるで人が変ったみたいに激怒して私を突き飛ばし、お前は口が臭くていかん! と言いました。あの時のはずかしさ、私はそれから数十年経ったこんにち思い出しても、わあっ! と大声を挙げて叫び狂いたいほどでございます。

 これは、老詩人の語りの内容です。この語りの中で、私たちが思わず目に留めるのは、老詩人は幼い頃、下女に性的虐待を受けていた、という事実です。語りの中の、「けしからんこと」という記述がそれに当たります。仮に、私たちが老詩人の立場であったら、この「虐待を受けていた」という事実を中心に、下女から被った被害について語るのではないでしょうか。しかし、この老詩人は、それだけではなくて、「お前は口が臭くていかん!」と言われたという、一見、些末に思える出来事をも混ぜ込みながら、このエピソードを語っています。ここに、老詩人の、現実に対する把握の仕方の特徴が顕れていると思われます。もちろん、性的虐待を受けたことも、「口が臭くていかん!」と言われたことも、どちらも事実であるのだと推測されます。しかし、普通の人は、性的虐待のことに軸足を置いて、把握します。それに対して、この老詩人は、どちらにもスポットライトを当てて、語っているのです。そのことにより、この話の中の下女が、意思疎通が不可能な、奇怪な存在のように見えてしまっている上に、この話自体も、何だか不思議な印象を与えるエピソードになってしまっています。
 これは、下女の例ですが、他の女性たちに対する描写についても、これと同じ仕組みが働いています。

  忘れも致しません、残暑の頃の夕方で女房は縁側で両肌を脱ぎ髪を洗っていまして、私が、おいきょうは大金を持って来たよ、と言い、その紙幣を見せましても、女房はにこりともせず、一円札ならたかが知れている、と言いまして、また髪を洗いつづけます。私は世にも情無い気持ちになりまして、それではこの金は要らないのか、と言いますと、彼女は落ちついて自分の膝元を顎で差し、ここへ置きなさい、と言うのです。私は、言いつけられたとおりにそこへ置いたとたん、さっと夕風が吹いて来て、その紙幣が庭へ飛び散りまして、一円札でも何でも、私にとっては死ぬほどの苦労をして集めて来た大金です。思わず、あっと声を挙げて庭に降りてその紙幣の後を追った時の、みじめな気持ちったら比類の無いものでございました。

 この話でも、たしかに「女房」の冷たい性格は窺えますが、それについて語るのならば、一円札が風に吹かれて飛んでいった、という事柄について、必ずしも描写する必要はないと言えます。お札が風に吹かれて飛んでいったことは、「女房」のせいであるとは言えないからです。しかし、この老詩人は、その時に起こった出来事を、些末な部分も切り捨てずに、正確に描写しようとしています。その結果、このエピソードも、掴みどころのない、不思議な話に仕上がっています。
 他のエピソードにも、同じ事が言えます。小学校の先生の奥さんについてのエピソードについては、この「奥さん」がてのひらを返すような態度を急に取ったという事実に対して、普通は、夫の手前、一人の児童を贔屓するわけにはいかなくなったと捉えます。しかし、この老詩人は、そのような話の中心を押さえていないために、この話は極めて不思議な話になってしまっています。「おいらん」のエピソードについても、この「おいらん」はその職業柄、世間ずれしていたために、この詩人に意地悪い仕打ちをしたのだ、と考えれば、一本、筋が通ります。しかし、老詩人本人は、そうは考えていません。「最初の女房」についても、彼女の悪態をそのまま記述してしまっているために、なんだか奇妙な話に仕上がっています。それは、その悪態の部分を具体的に記述しているから、そのような変な話に感じられるのだと言えます。「三番目の女房」についても、「どろぼう!」と叫ぶ女房の姿を具体的に描写しているために、不思議な話になっています。
 さて、今、紹介したこれらのエピソードにおいては、話の輪郭がぼかされることによって、女性という存在が奇怪なものに見えてしまっているのでした。しかし、この老詩人の特徴は、必ずしも女性というものを奇怪に描き出す、というところにあるのではありません。エピソードの中には、提示される女性の像は比較的まともであるのに対し、話全体は不思議な印象を与える、そんな話もあるからです。それは、「永く外国で勉強してきた女子大学の婆さん教授」にまつわるエピソードです。この女性の、老詩人へのいじめの内容は、ただ老詩人の詩をすごい勢いで罵倒したというだけで、意味が通らないような不可解な性質のものではありません。しかし、老詩人は、この「婆さん教授」にいじめられたエピソードの中に、自分が彼女に対して余計な行動をしてしまった話も加えています。

  やっぱり永年外国で学問をして来て大学の教授などしていても、あのダメな男につけ込んでさんざん痛めつけるという女性特有の本能を持っているからなのでございましょうか、とにかく私はそのすさまじい文章を或る詩の雑誌で読み、がたがた震えまして、極度の恐怖感のため、へんな性慾倒錯のようなものを起し、その六十歳をすぎた、男子にも珍らしいくらいの大きないかめしい顔をしているお婆さんに、こんな電報を打ってしまって、いよいよ恥の上塗りを致しました。ナンジニ、セツプンヲオクル。

 ここで、老詩人は、自分が「婆さん教授」に「ナンジニ、セツプンヲオクル」という電報を送ってしまったことを語っています。この、電報に纏わる話は、たとえそれが事実であっても、普通は、女性からいじめられたことを話す際には、省くところです。なぜなら、その電報は、「婆さん教授」から受けた被害とは、直接的には関係がないことだからです。別件と言ってもいいかもしれません。しかし、この老詩人は、それを関係があると思っている。その結果、掴みどころのない不思議な話が出来上がっているのでした。
 このように、この老詩人の語りの異常な点は、ポイントと思われる箇所を押さえずに説明することで、話の輪郭がぼやけてしまっているというところにあると言えます。そのことによって、数々の不思議なエピソードが生まれているわけです。老詩人の語りが「不思議」であることは、彼の語りを引用している人物であり、作品冒頭に一瞬だけ顔を出している、作品の「語り手」の発言からも分かります。

 これは十年ほど前から単身都落ちして、或る片田舎に定住している老詩人が、所謂日本ルネサンスのとき到って脚光を浴び、その地方の教育界の招聘を受け、男女同権と題して試みたところの不思議な講演の速記録である。

 この、「不思議な講演」という表現からも、この語り手の話の内容を、「不思議である」と捉えることが適切であるということが分かります。
 さて、ここまで、老詩人の特徴について見てきました。その「特徴」とは、話の中心を押さえずに把握する、というものでした。ここで、なぜ、この老詩人には、そのような把握の仕方が可能なのか、という問題が生じます。それについては、この人物は、普通の人が見るのと全く異なる方法で、世界を見ているからではないか、と考えることができます。
 このことを具体的に説明すると、次のようになります。すなわち、私たちが物事を把握する際には、どこか要点と思われるところに軸足を置いた上で、把握します。しかし、それは、その要点以外の事柄は省いているということでもあります。一方、この老詩人は、自分が経験した事柄に対し、要点というものを設けずに、全ての要素を優劣を付けずに、そのまま扱っています。その結果、偏りなく、現実を把握することに成功しているのです。
 このように、この詩の老詩人の語りは、一見、変わっているように見えるけれども、実は、偏りのない現実の把握の仕方を反映したものであると言えます。却って、私たちの方が、偏った眼で現実を見ているのだということが、ここで、明らかになります。




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