見出し画像

人類全体が眠っている —谷川俊太郎の詩「午の食事」について—

 今回は、詩人・谷川俊太郎の「午の食事」という詩について見ていきます。


   午の食事 谷川俊太郎

  そうして雲の多い空の下にもまたふたたびあの楽しい午の食事が廻って
 来る。不幸に耐えながら不安に耐えながら沢山の家庭がまたあの楽しい午
 の食事をしたためる。どんな場合にもそれはあわれに楽しい午の食事だ。
 離婚の日の誕生の日の卒業の日のそして又死の日の午の食事だ。滅びるこ
 とを知っている僕達のあわれに楽しいひとときなのだ。どこからか午の円
 舞曲がきこえてくる、白い洗濯物のひるがえる、それはあわれに楽しいひ
 とときだ。

 お祖父さんもお母さんも妹も、そうして失なわれた人や失なわれる時もみ
 んな一緒に午の食事をしたためる。蝶がとぶ、爆撃機がとぶ、いかなる並
 木道を歩いたか。感傷におぼれず働くことのみを喜ぶ人も、病気で星雲の
 ことばかり思っている人も午の食事に席を列ねる。そうして僕も又一緒に
 食卓につきながら思うのだ。たしかにそれは午の食事だと。あわれに楽し
 い午の食事だと。


 この詩の「午」という語には、「ひる」という振り仮名が、「お祖父さん」には、「おじいさん」という振り仮名が、それぞれ振ってあることを、断っておきます。
 さて、この詩が奇妙な作品であることは、一読すれば分かってもらえると思います。同じフレーズを何度も繰り返しているため、まるで、壊れたロボットが喋っているような語りになっています。しかし、この詩を何度も読み返してみてください。不思議と、胸に熱いものがこみ上げてこないでしょうか。なぜ、この詩を読むと、そのような熱い気持ちになるのか。それは、この詩の内容に、その秘密があります。この詩の内容は、「午の食事」(昼食のこと)にまつわるものになっていて、どんな場合でも、どんな人でも、昼には食事を取るのだ、ということが強調されています。その際に、私たちの生活の中に降りかかってくる、数々の不幸について言及したり、反対に、平和を感じさせる風景を挿入したりしています。例えば、

 蝶がとぶ、爆撃機がとぶ、いかなる並木道を歩いたか。

 という箇所からは、平和を象徴する、のどかな風景と、その反対の、殺伐とした光景の、両方を想像することができます。このように、幸福や不幸について描くことによって、この詩は、私たちの心の中に、漠然とした人類愛のようなものを喚起させています。そのような感情を感じさせられた私たちは、「午の食事」というものを、人類が共有する、何か尊いものの象徴であるかのように考えるのです。この詩はまず、私たち読者が、作品全体から、そのような人類愛のようなものを抱くことを当てにして、書かれています。
 そのように、この詩の「内容」は、私たちにとって、非常に共感できるものなのでした。それは、読んでいる私たちを、熱い気持ちにさせるほどです。一方で、この詩の語り口は、私たちに違和感を感じさせるものになっています。それは、まず、繰り返しが多い上に、どこか奇妙な言い回しになっています。例えば、「感傷におぼれず働くことのみを喜ぶ人も、病気で星雲のことばかり思っている人も」という箇所などは、特に奇妙です。その違和感について追究してみると、外国語の翻訳のようで、それも下手な翻訳のような文章であるため、奇妙に感じられるのだ、ということが分かります。そう考えると、もしかすると、この語り手は、自分の言っていることの意味が、よく分かっていないのかもしれない、という可能性が浮かんできます。
 ここで、次のようなことが言えます。この語り手は、「午の食事」がいかに尊いか、語っていますが、本当は、その「意味」をまるで分かっていないのではないでしょうか。また、私たちは、語り手の語りの内容から喚起させられる、人類愛のような感情を、理解できますが、肝心の、語っている当人は、それを理解していないのではないでしょうか。この詩の繰り返しの部分からは、語り手が、「午の食事」の尊さというものを、丸暗記しようとしているような印象を受けます。これこそが、まさに、語り手が「午の食事」の尊さについて、理解していない証拠ではないでしょうか。作中では、「失なわれた人や失なわれる時もみんな一緒に午の食事をしたためる」と言っていて、あたかも死者でさえも「午の食事」に連なる習慣にあるように語られていますが、これは現実にはあり得ません。このように、現実にはあり得ないことを語っているという点からも、この語り手が、意味を理解しないで、ただ丸暗記しているだけなのだ、ということが読み取れます。
 ここに至って、語り手の特徴が、明らかになります。それは、私たちが当たり前に理解できる、「午の食事」の尊さ、あるいは、その語りから喚起される人類愛のような感情を、この人物は、まるで理解できない、というものです。そのような語り手は、奇異な存在であると言えます。しかしまた、次のようにも考えられます。人間が共有する、人類愛などの「尊い感情」というものは、全て、幻想なのではないか、と。「午の食事」の尊さや、それについての語りが示唆する人類愛のような感情は、一見、人類が生み出した、最も価値あるもののように思えます。そして、その尊さは、指し示されれば誰でも理解できる性質のもので、それが理解できない、という人は、この詩の語り手以外にはいません。しかし、この詩は、その感情について、実はそれは幻にすぎないのだ、と見破っています。人間全体、人類全体は、実は眠りの中にいて、夢を見ている存在なのだと、この詩の語り手はただ一人、気づいているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?