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<笑いの波>の存在 —左川ちかの詩「波」について—

 今回は、詩人・左川ちかの「波」という詩について見ていきます。


   波 左川ちか

  水夫が笑つてゐる。
  歯をむきだして
  そこらぢゆうのたうちまわつてゐる
  バルバリイの風琴のやうに。
  倦むこともなく
  彼らは全身で蛇腹を押しつつ
  笑ひは岸辺から岸辺へとつたはつてゆく。

  我々が今日もつてゐる笑ひは
  永劫のとりこになり
  沈黙は深まるばかりである。
  舌は拍子木のやうに単純であるために。
  いまでは人々は
  あくびをした時のやうに
  ただ口をあけてゐる。


 作中に登場する、「我々が今日もつてゐる笑ひ」などの表現から、この詩は、人間の「笑ひ」というものを題材として扱っている作品ではないかと推測されます。その上で、まず第一連を飛ばして、第二連について見てみると、「今日」、「いま」という言葉が登場します。ここから、第二連は、現代における、私たち人間の笑いについて書かれていると分かります。その、現代の笑いとは、具体的には、「拍子木」のように「舌」を動かし、「あくびをした時のやうに/ただ口をあけ(る)」というものです。一方、第一連で描かれているのは、現代よりも昔の時代に、人々によってなされていた「笑ひ」の方法であると推測されます。第二連の「いまでは」という語から、第一連の内容は、第二連の内容よりも古い時代の事柄なのだと考えられるのです。この、古い時代の笑いの方法とは、「歯をむきだして/そこらぢゆうのたうちまは(る)」というものでした。これは、「バルバリイの風琴のやう」な笑い方であるとも表現されています。
 ところで、今、第一連では過去の時代の「笑ひ」について書かれていると述べましたが、この「過去の時代」は、あくまで架空のものであることを断っておきたいと思います。歴史的常識として、人間の「笑ひ」が古くは「歯をむきだして/そこらぢゆうのたうちまは(る)」というものであったという話は聞きません。なので、この、かつての笑い方、というのは、作者の創作による架空の設定であると言えるでしょう。
 そして、のたうちまわって笑うという笑い方を実践していた人種として、「水夫」が挙げられています。この設定にもちゃんと理由があるのですが、それについてはまた後で触れたいと思います。
 さて、架空ではありますが、過去の時代には、人間は、「歯をむきだして/そこらぢゆうのたうちまはつて」笑っていたと言います。それに対して、現在の私たちは、「ただ口をあけ(る)」笑い方を取っています。この作品は、どうやら、架空の時としての昔を懐古し、現在の人間の笑い方を嘆いているように読めます。しかし、そうだとすると、なぜ、のたうちまわる大げさな笑い方が良くて、口を開けるだけの消極的な笑い方が、良くないのでしょうか。この詩は、豊かに感情を表現することを奨励する作品なのでしょうか。
 実は、そうではありません。のたうちまわる笑い方が良くて、口を開けるだけの笑い方が良くないとされるのには、もっと深い理由があるのです。その理由について、これから見ていきましょう。
 まず、「のたうちまわる」ことが、「バルバリイの風琴のやう」と説明されることのわけを考えてみましょう。「バルバリイ」というのは、「バーバリー」のことで、布地の一種です。また、「風琴」というのは、ここではアコーディオンを指します。「バルバリイの風琴」は、「バーバリーで出来たアコーディオン」のことを意味するのです。ちなみに、アコーディオンとは、蛇腹を伸縮させると同時に、鍵盤を押すことで音が鳴る楽器です。
 次に、「のたうちまわる」という行為は、寝転がって横に転がる運動として、イメージされます。横に転げ回っているわけなので、それはまるで「全身で蛇腹を押し(て)」いるかのような動きであると言えます。風琴の蛇腹というのは、普通は横に押すものです。このように、ここでは、笑うという行為が、「のたうちまわる」という、横の運動を取っているため、この運動によって鳴らされると想像される楽器は、蛇腹によって構成される「風琴」であるという設定になっているのです。
 一方、「ただ口をあけてゐる」笑いというのは、「舌」を動かす笑い方です。ここで、「舌」というものの動き方を考えて下さい。「舌」というのは、上顎を叩くという動き方をします。このため、「舌」は、作中では、二本の木を叩き合わせる「拍子木」のようである、と想像されています。
 このように、「全身」を使って横にのたうちまわる昔の笑い方は、「風琴」を奏でるという行為に喩えられ、「舌」を使うと同時に口を開ける現代の笑い方は、「拍子木」を叩くという行為に喩えられています。
 しかし、ここで、一つの疑問が生じます。「拍子木」を叩く行為に喩えられる現代の笑い方ですが、「拍子木」がいかに単調な道具と言えど、何らかの音は出ています。それなのに、なぜ現代の笑い方では、「沈黙は深まるばかり」なのでしょうか。風琴も拍子木も、同じように音を出す道具です。なのに、なぜ、風琴だけが音を奏でることができ、拍子木には音を出すことすら不可能なのでしょうか。
 それについて考えてみましょう。まず、私たちが見落としている事実が一つあります。それは、昔の時代の笑い方についての記述に登場する、一つの喩えです。それは、具体的には、

  笑ひは岸辺から岸辺へとつたはつてゆく。

 という文章の中にあります。この一行の中で、「笑ひ」は、岸辺から岸辺へ伝わっていく、「波」に喩えられています。ここでようやく、タイトル「波」の意味が顕れるのです。そして、笑っている人物は「水夫」なので、「水夫」がこの笑いの波を起こしているのだと言えます。たしかに、船というものは、簡略な形のものであれば、オールで水を漕ぐことによって、前へ進みます。この時、波が起こることは、誰でも分かります。実際に水夫の乗る船は、このような簡略的なものではないかもしれませんが、それでも、この詩の中では「水夫」は、オールのようなもので水を押し、波を起こす人物として想定されています。なぜそう言えるかというと、先ほどの風琴の喩えと関係してきます。
 風琴とは、蛇腹を押すことを必要とする楽器でした。その風琴は、本当は、蛇腹を押すことでリードに空気を送り、鍵盤を押さえることで初めて音が鳴る道具なのですが、ここでは、蛇腹を押すという行為が、オールを漕ぐ行為と重ねられていて、それによって、初めて、波、つまり音の波動が起こるのだとされているのです。
 つまり、この詩の中では、蛇腹を押すという行為と、音の波動が伝わっていくという現象が、直に結びついているのです。蛇腹によって押されるのは、空気の波(つまり音)であるとされているわけです。このように、音の波を押すというイメージは、蛇腹にしか当てはまらないため、拍子木という道具は、この詩の中では、音を出すことが出来ないのです。
 このように、「風琴の蛇腹を押す」も「波を漕ぐ」も、何かを横に押すことによって可能になる行為です。これは、横に転がる動きである「のたうちまわる」という行為から派生しているのでした。一方、拍子木という楽器は、縦の動きしかできない「舌」の喩えとして機能していました。「舌を動かす」、つまりただ口を開けて笑うことだけでは、笑いの音波は生まれないのです。この詩の語り手が、水夫たちがのたうちまわって笑っていた過去を懐かしみ、現代の私たちの笑い方を嘆いている理由は、まさにここにあります。つまり、のたうちまわって笑う笑い方により、笑いの「波」は初めて生まれるのです。
 ここまで見てきたことから、この詩は、架空の過去をあえて設定することによって、そこに作者の理想を詰め込んでいると言えます。その理想によると、のたうちまわって全身で笑うことこそ、本当の笑い方であるとされています。私たちが普段しているような、ただ口を開けるだけの笑い方は、真の笑いではないのです。
 ここまで、のたうちまわる笑い方が、なぜ口を開けるだけの笑い方よりも良いとされているのか、作中の説明を見てきました。では、この詩は、一体何をテーマにしているのでしょうか。それについては、「笑いの原因」というものがテーマであると考えられます。この詩が描き出している現象は、実は、笑いの連鎖というものであると考えられます。すなわち、ある一人の人物が、のたうちまわって笑い転げていたら、それを見ていたもう一人も、のたうちまわって笑い始めるという現象です。これについては、通常は、「最初にのたうちまわっていた人物の笑い方が、あまりに滑稽で、可笑しかったから、二人目も笑ったのだ」と説明されます。そのような笑いの連鎖を、実際に情景として目にした事がなくても、普通の人ならば、今述べたような説明を加えるでしょう。しかし、この作品は、この現象について、「それは、目に見えぬ『笑いの波』が一人目から二人目に伝わったからだ」と説明しているのです。
 その上で、語り手は、のたうちまわる笑い方だけを「笑ひ」と表現しています。口を開けるだけの笑いについては、作中では、実は「笑ひ」とは呼ばれていません。笑いの原因を、蛇腹という比喩や笑いの波という表現を使って説明する際には、横の動きである「のたうちまわる」笑い方しか当てはまらないことになります。そのため、語り手は、私たちの、口を開けるだけの笑い方は、正統な笑い方ではないという設定にしたのでしょう。


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