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実感に訴えかける作品 —北川冬彦の詩「馬」について—

 今回は、北川冬彦の「馬」という詩について見ていきます。この詩を引用するに当たって、歴史的仮名遣いは現代の仮名遣いに改めました。


   「馬」   
  軍港を内臓している。


 この詩は、一見、謎めいた作品であるかのように思えます。タイトルの“馬”というのは、あの動物の馬のことですが、この詩はなんと、馬という生き物が「軍港を内臓している」のだと主張しているのです。言うまでもなく、実際には、馬の身体の中に「軍港」は存在しません。このように、この詩は、事実とは異なることを主張しているため、それを前にした私たちは、思わず面食らい、戸惑ってしまいます。そのように、違和感を感じさせるばかりのこの詩に対して、私たちは、どのように向き合えばよいのでしょうか。
 それを解くための鍵は、作中の「内臓」という言葉にあります。私たちは、「内臓している」というこの箇所を、「内に含んでいる」という意味を持つ、動詞の働きをする単語として受け取ります。つまり、頭の中で、「内蔵」(「ゾウ」は肉月のない「蔵」)という単語に置き換えて理解しているのです。しかし、私たちの前に提示されているのは、あくまで臓器という意味の、「内臓」という語です。「内蔵」ではなく、「内臓」の文字が使われていることから、この詩は、馬の「内臓」を「軍港」に喩えているのだと分かります。つまり、この作品は、その方法の上で、馬の身体の中に「軍港」が存在するというシュールな絵を描いてはいますが、その目的は、あくまでも、現実の「馬」を活写するというところに着地しているのではないかと考えられるのです。
 このことについて、詳しく説明しましょう。この詩の意味を取ろうとする際、私たちは、「ナイゾウしている」の響きから、「内蔵している」(内に含んでいる)という動詞を連想します。「軍港」を内に含んでいる馬のイメージが、私たちの脳内に喚起されるわけです。実際には、動物の馬の中に「軍港」は存在しませんから、私たちは、これをフィクションとして受け取ります。しかし、その後、実際には「内蔵」ではなく「内臓」という文字が使われていることに気づきます。ここで、この詩が描き出しているのは、現実の馬なのだと分かります。では、馬の中に「軍港」があるというイメージと、現実の馬の存在、この二つの関係性とは、一体何でしょう。——それは、これらの二つは現実の馬の持つ<実感>によって繋がっている、というものではないでしょうか。
 馬の中に「軍港」がある、というイメージは、現実の馬のどっしりとした重量感や、肌の滑らかさを思わせます。「軍港」の重々しい雰囲気は、現実の馬の荒々しい息づかいにマッチしています。このように、馬の中に「軍港」がある、というイメージは、馬という生き物の質感を始めとして、その生命力を見事に表しているとは言えないでしょうか。
 そう考えると、この詩の面白さは、生き物の生命力を、その対極にある、「軍港」という全くの人工物によって表してしまっているところにあると言えます。このような不思議を引き起こすことができるのも、また、詩というものなのでしょう。いずれにせよ、この作品は、人々の<実感>に訴えかけることを主眼とした詩なのです。

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