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光り輝く真実 —村上龍の小説「OFF」について—

 今回は、村上龍の短編小説「OFF」について見ていきます。
 この作品には、一人称が「あたし」である語り手が登場します。この「あたし」は売春婦であり、作品は、全篇、性と暴力にまつわる描写で満ちています。そのような描写の合間に挿入されるのは、「あたし」が中学生だった頃の思い出にまつわる話です。「あたし」は、中学生の頃、上級生のヤマグチさんという男子に恋をしていました。ヤマグチさんはブラスバンド部で指揮をしていたため、「あたし」は、何も楽器ができないのにも拘わらず、ブラスバンド部に入部し、音楽教室の隅にいたのだそうです。その音楽教室の蛍光灯のスイッチについての話が、ここでは重要になります。スイッチは、小さなレバーの形が三つ並んだもので、左側に「OFF」、右側に「ON」と書いてあったそうです。そのスイッチを消したり付けたりした記憶が、売春婦として男たちと性交をする現在の「あたし」に影響を与えています。
 一体どんな影響なのかというと、「あたし」は、昔から、男と交わっている最中には、「あの電気のスイッチを切る時のなつかしい音がからだ全体に響く」のだそうです。しかし、これは一体どういうことでしょうか。
 おそらく、ここで、「あたし」は、世の中に存在する事柄を二つに分けています。一つは、「あたし」が身を浸している、性や暴力の世界に属する物事です。それらは、社会の正常なありようからは逸脱していて、普通の人は目を背けてしまう事柄です。二つ目は、性や暴力以外の、社会の表の部分に属する全ての物事です。これは、社会で「健全なこと」として奨励されている事柄であると言って良いでしょう。そのように、世の中の事柄を二つに分けた上で、「あたし」が、男と寝る時には、いつも「スイッチを切るときの音」がからだに響く、と言っていることに注目しましょう。スイッチを切るのですから、ここではスイッチが、「ON」の状態から「OFF」の状態へと、切り替わっているのだと言えます。同時に、ここで「あたし」は、先に示した「健全な世界」から、「性の世界」へと、身を投じています。ということは、この小説の中では、「健全な世界」というものは、スイッチが「ON」の状態になぞらえられていて、反対に、「性や暴力の世界」というものは、スイッチが「OFF」の状態になぞらえられているとは言えないでしょうか。そう考えると、この「あたし」という人物は、「健全な世界」から、「性の世界」へと飛び込むことで、「ON」と「OFF」の間を行ったり来たりしているのだと言えます。
 しかし、作品の結末で、「あたし」は男たちから暴力を受けます。目も殴られたらしく、物が歪んで見えるようになってしまうのです。その歪みの中に、「クシャクシャの顔」のようなものが見えると、「あたし」は言います。

 昔、音楽教室の蛍光灯のスイッチをOFFにする時にまっ暗な中に汚ない猿の顔が浮かんできたら恐いだろうなと考えたことを思い出した、部屋の電気を点けてまわりをゆっくり見回したらやはりモノが全部歪んで見えてその歪みの中にクシャクシャの猿の顔があった、その顔はあたしより醜くてあたしをじっと見ていた、ガス台の上にも冷蔵庫の裏面にもテーブルにもコーヒーカップにも女から貰った下着にも壁にもカーテンにも窓から見える遠くの高層ビルにもそのクシャクシャの猿の顔があってじっとあたしを見つめていた、
 これからはこの猿の顔と一緒に生きていくのだとあたしは思った。

 このように、「あたし」は、視界に歪みが生じたために、「クシャクシャの猿の顔」が見えるようになります。ただ、この「猿の顔」は音楽教室の蛍光灯のスイッチにまつわる思い出と関係しているようです。音楽教室のスイッチを「OFF」にする時に真っ暗な中に「汚い猿の顔」が浮かんできたら恐いだろう、と想像した、かつての「あたし」。今、彼女は実際に、「猿の顔」がずっと浮かんでいるように見えています。ということは、ここでは、比喩的に、音楽教室のスイッチがずっと「OFF」状態になってしまった、ということが示されているのではないでしょうか。いや、音楽教室のスイッチではありません。彼女自身の、「健全な世界」と「性と暴力の世界」を行ったり来たりする際のスイッチが、ずっと「OFF」になってしまった、ということではないでしょうか。それは、言い換えれば、彼女は、「性と暴力の世界」から帰って来られなくなってしまった、ということです。
 このように、この小説は、「性と暴力の世界」という、私たちが思わず目を背けたくなるような場所から、永久に帰って来られなくなった「あたし」の物語なのでした。では、その物語は、絶望的な話なのでしょうか。それとも、希望に満ちた話なのでしょうか。
 それについては、一見、絶望的な物語であるように思えます。なにしろ彼女は、ひどい暴力を受けて、物が歪んで見えるようになってしまったのですから。しかし、末尾における彼女の語りには、そのような絶望感は感じられません。「これからはこの猿の顔と一緒に生きていくのだとあたしは思った」。この一文からは、どこか、希望が感じられないでしょうか。いや、希望というような、儚いものではありません。むしろ、自分の真の人生はここから始まる、というような、力強ささえ感じさせます。一体なぜ、彼女は、「猿の顔」が見えるようになっても絶望せず、むしろ、新たな人生を力強く迎えようとしているのでしょうか。
 それは、彼女が、「健全な世界」ではなく、「性と暴力の世界」にこそ、素晴らしいものが詰まっている、と考えているからではないでしょうか。裏の世界に価値を見出す彼女の考え方は、既存の価値観とは大きく異なっています。「既存の価値観」とは、もちろん、「健全であること」を奨励し、「性や暴力」を世の中の隅に追いやる、そのような価値観のことです。しかし、彼女は、普通の人が価値を見出さないものに価値を見出す意義を、深く知っているのだと考えられます。そのため、彼女は、裏の世界にこそ価値がある、と考えているのではないでしょうか。
 このように、彼女は、世の中で善いとされていることに価値を見出さず、悪いとされていることに価値を見出す人物なのでした。彼女のそのような性質は、作中の別の箇所からも窺えます。

  暗くなってから蛍光灯のスイッチを入れた、スイッチをONにする時スイッチというものはOFFのままでいる方が断然長いということに気付きそんなことに気付く人はあまりいないだろうと思ってそのことをいつかヤマグチさんに言ったらいいなと思った、

 ここで、「あたし」は、皆が気づかないことに気づいていて、そのような事柄を大切にしています。このことからも、「あたし」が、普通の人が価値を見出さないことに価値を見出す人物であると言えます。そのような彼女の存在に、私たちは、思わず顔をしかめたくなります。しかし、よく考えてみると、彼女の思考の内容は、どれも間違っていると言えないものです。なぜなら、性や暴力という事柄には、本当のところは、魅力が詰まっているし、スイッチのレバーも、たしかに、「OFF」の状態の方が長いと言えるからです。このことから、彼女という人物は、世の常識に惑わされずに真実を掴み取ることのできる存在なのであると考えられます。私たち、つまり普通の人間は、物事をきちんと見ているようで、実は見ていません。その意味で、そうした私たちの価値観とは正反対を行く語り手は、光り輝く真実を手にすることのできる人物であると言えます。


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