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本質からずらす —吉岡実の詩「牧歌」について—

今回は、詩人・吉岡実の「牧歌」という詩について見ていきます。


   牧歌 吉岡実

  村にきて
  わたしたち恋をするため裸になる
  停る川のとなりで
  眠らぬ馬をつれだす
  解槽の水と凍る星の角に
  かさばる女の胴体と同じ重さの
  こわれる物を搬ぶ
  桶の底をはいつくす
  なめくじやむかでの踊り
  わたしたちすばやく狩りたてる
  羽毛のない鳥やゴムの魚
  朝啼いて夜だまる可憐な獲物を
  枯れた藁と茜いろの雲のあいだで
  しきりに移動したえず嚙むもの
  小屋にとじこめ
  窓から月を押しだし
  火をおこす
  食物にならぬ四つの腿の肉をやき
  飲料にならぬレモンをしぼる
  小屋の主人は行方不明
  マダムは心中未遂
  子供は街の学校の便所のなか
  にぎやかな運命
  わたしたちここに停るもの
  わたしたち裸のまま
  火事と同時に消えるもの
  多勢の街の人々が煙を見にくる


 この詩を一読すると、全く意味不明な作品であるように感じられます。奇妙な作品であるという印象は受けるのですが、その奇妙さに規則性が無く、解釈するのは不可能であるとさえ思えてきます。
 しかし、それでも、作品のタイトルと内容を照らし合わせてみると、そこには関連性があることが分かります。タイトルは「牧歌」であり、これは、「牧人や農夫の生活を主題とする詩歌で、抒情的で素朴なもの」という意味です(『広辞苑』を参考にしました)。そのタイトルの通り、作中には、「村」、「川」、「馬」、「飼槽」、「星」、「踊り」、「狩りたてる」、「藁」、「雲」、「小屋」、「月」などの、田園を連想させる、抒情的な単語が多く登場します。「恋をするため裸になる」という行為にも、いかにも田園的なおおらかさがあります。つまり、この作品は、田園での生活を謳った牧歌の一種と考えられるのですが、一読して分かるように、それだけでは解釈できない奇妙さがあることから、通常の牧歌とは異なる点を持っている詩であるということになります。一口に言えば、本物の牧歌を下敷きにして、それのパロディめいたものを繰り広げるということが、ここではなされているのではないかと予想されるのです。
 ですが、この作品には、そのような読みから、一見、逸脱してしまうように感じられる箇所があります。それは、

  小屋の主人は行方不明
  マダムは心中未遂
  子供は街の学校の便所のなか

 という箇所です。この三行には、「行方不明」、「心中未遂」、「便所」など、牧歌的な事柄からは遠い印象の、殺伐とした、あるいは生活感の溢れる単語が並んでいます。この三行については、一体どのように理解すれば良いのでしょうか。
 それについては、この三行の次の行を見ると分かります。

  にぎやかな運命

 とあり、ここでは、「小屋の主人」、「マダム」、「子供」のそれぞれの運命について、「にぎやかな運命」と表現しています。「にぎやかな運命」という表現それ自体は、美しさを感じさせ、田園詩にふさわしいと言えます。しかし、肝心の、「にぎやかな運命」として挙げられる、「小屋の主人」たちの運命は、決して牧歌的な美しさを湛えてはいません。このことから却って、この詩の奇妙さの方向性が、はっきりと定まります。それは、この詩の語り手の、「普通の人からしたら全く牧歌的ではない事柄に、牧歌的な要素を見出している」という奇妙さだったのです。「行方不明」、「心中未遂」、「便所のなか」という、全く牧歌的ではない小屋の人々の現状を、「にぎやかな運命」と表現し、無理矢理、牧歌的なものとして数えているからです。
 そう考えると、

  なめくじやむかでの踊り

 という表現も、たとえ「踊り」という単語がくっついていても、全く牧歌的ではないと感じられてきます。なにせ、「なめくじやむかで」の踊りなのですから。本物の牧歌ならば、例えば、美しい少女たちの踊りなどを描くはずです。ここでは、ただ、「なめくじやむかで」が蠢いているさまに、無理矢理、「踊り」の要素を見出しているだけであると指摘できます。
 そう考えると、作中の、「村」と称される場所は、本当は「村」ではないのではないかという疑いが湧いてきます。末尾では、火事になった「小屋」を、「街の人々」が見に来るという場面が描かれています。この人々は、実は「小屋」の隣近所に住む人々なのではないでしょうか。つまり、「村」とは、本当は「街」の一部なのだと考えられるのです。「街」の中の一軒の家に、「わたしたち」は、またしても無理矢理、「村」(田園)の要素を見出しているだけではないでしょうか。作中の「子供」が、「街の学校の便所のなか」にいるということは、この子供は、「街の学校」に通っているはずです。このことから、「村」は「街」とは別の集落ではなく、「街」の一部なのではないかと推測されるのです。
 さて、この詩が田園を舞台にしない田園詩であることが分かったところで、作中のまだ明らかになっていない部分について見ていきましょう。
 作中で、「わたしたち」が狩りたてた、「朝啼いて夜だまる可憐な獲物」とは、一体何でしょうか。それについては、鶏であると考えられます。「わたしたち」は、ある一軒の家の庭に来ていて、その庭にある鶏小屋を「小屋」と呼んでいるのではないでしょうか。これは昭和期に書かれた詩なので、その当時は家に鶏小屋があることも、珍しくはなかったのだと考えられます。
 その小屋に、「しきりに移動したえず嚙むもの」を閉じ込め、その「腿の肉」を焼いた、とあります。この四つ足の動物とは、一体何でしょう。——ここでは、それを、鼠と考えました。「なめくじやむかで」を美化していることを考えると、ここでは、あまり美しくはない生き物が、美化されているのだと推測されるからです。
 さらに、「停る川」は、庭にある池であると考えた上で、「眠らぬ馬」は庭にいる番犬、「羽毛のない鳥」、「ゴムの魚」は、それぞれ、池に浮いている「子供」の玩具の、プラスティック製のアヒル、ゴムでできた魚であると考えました。また、「こわれる物」は植木鉢に植えられた木ではないかと推測しました。その植木鉢は「桶」とも表現されていて、その底に「なめくじやむかで」が蠢いているのです。
 このように、牧歌的な生活に憧れる「わたしたち」は、街中で、一軒の家を見つけ、その家に「村」としての要素を見出したのでした。その家の庭や小屋で、彼らは、田園のような暮らしを再現することを試みます。しかし、そうする内に、火事になってしまうのでした。
 この詩の面白いところは、彼らのやっていることを、誰も、「これは牧歌的ではない」と否定できないことです。彼らの試みはたしかに、牧歌的な生活の、ある一面を押さえているからです。たとえ狩るものが、小屋で飼われている鶏や、その家に棲み着いている鼠だったとしても、「狩り」には違いありません。また、なめくじやむかでについても、たしかに踊っていると表現することができます。このように、この詩の語り手は、実際に田園生活を営んでいるわけではないのに、自分たちは牧歌的生活をしている、と嘯いていて、一見、事柄の本質を押さえないで、その事柄に取り組んでいるように見えます。しかし、では一体、そのことの本質とは何か、と問い直しているのが、この詩の内容なのです。つまり、あえて、本質からずらすことで、我々人間が死守してきた物事の本質とは、本当に本質だったのか、と問いかけているのです。
 以上より、この詩は、牧歌的生活を試みる「わたしたち」の姿を通して、我々の、物事の本質に対する認識の仕方に揺さぶりを掛けている作品であると言えます。

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