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<優しい社会>とは —高橋新吉の詩「物」について—

 今回は、詩人・高橋新吉の「物」という詩について見ていきます。


   物 高橋新吉

  物は無限にあるから 何でも人にやるがよい

  命などは殊に人にやるのがよいのだ


 この詩の語り手は、変なことを主張する人物です。この語り手は、まず、「物は無限にあるから 何でも人にやるがよい」と言っています。この主張に関しては、その内容に納得することができます。私たちは、この語り手に対して、気前の良い人なのだな、と思い、この人は善い人だ、と判断して、思わず笑顔になることでしょう。しかし、次の「命などは殊に人にやるのがよいのだ」という発言に、その笑顔は凍りつきます。命を人にあげることを勧める人は、普通の感覚を持った人物ではありません。この人は実は頭がおかしい人だったのだと気付いた私たちは、急いでこの人の許から逃げようと考えます。
 しかし、逃げ出す前に、一度、この人物の主張について、深く考えてみたいと思います。よく考えると、「命」という自分の一番大切な「物」を、他人にやっても良いと考えるこの人は、「気前が良い」という姿勢を、徹底的に貫いている人であると言えるのではないでしょうか。反対に、「他人にどんな<物>でもあげたい」と口にするのに、「命」だけは絶対にあげない、と考える私たちの方が、不徹底な態度を取っていると言えます。
 ですが、その事実が分かっても、やはり、この人のような思考はできません。では、この人の思考に近づくためには、どうしたら良いのでしょうか。この人物の思考に近づくために、まず、私たち自身の思考と、この人の思考を、比較してみたいと思います。
 私たちは、何をあげたとしても、自分の「命」だけはあげずに、守りたいと考えています。仮に、自分の「命」を他人にあげる場合があっても、それは、一世一代の決意の下に行われます。しかし、この語り手は、おそらく、他人にお菓子をあげるのと同じ感覚で、自分の命をあげてしまう、そんな人物です。私たちの考え方と、語り手の考え方とは、何が異なっているかというと、私たちが、自分というものに軸足を置いて生活しているのに対し、この語り手は、他人の方に軸足を置いて生きているという点です。例えば、この語り手は、仮に自分の命が失われたとしても、他人が生きているのだからそれで良い、と考えるのだと推測されます。そのように、他人の方に軸足を置く生き方は、私たちの社会の在り方と正反対であるため、私たちは大きな違和感を覚えてしまいます。私たちは、「自分」という存在を守ることに、強くこだわっているからです。しかし、仮に、この語り手の考え方に基づいて構成された社会があったとしたら、それは、とても優しさに満ちた社会であると言えるのではないでしょうか。私たちは、普段、「<優しい社会>を実現しよう」などという言葉を口にします。<優しい社会>というのは、本当は、他人に対して、命さえも気軽にあげる社会のことなのではないでしょうか。そのような社会は、私たちの社会と異なっているために、一見、グロテスクに歪んだ世界のように思えます。しかし、本当は、温かさに満ちた社会であると言えるのです。このように、この語り手の考えによって構成される社会こそが、私たちの理想を体現した社会なのです。
 もちろん、実際には、そのような社会を実現する必要はありません。ただ、この語り手は、決して頭のおかしい人物なのではなく、理想の人間の在り方について、誰よりも真剣に考えている人物であると、理解することは大切です。

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