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石垣りん「カッパ天国」について —周囲は皆、カッパである—

   カッパ天国 石垣りん

  そこで、お勤めのほうはいかがですか
  と、きた。

  「重いですよ、月給が」

  多すぎて重いのですか、とはさすがに
  聞かなかった。

  無い、と生きてゆけない
  その重たさ、だ。

  それはごく、うすでの枯葉色の
  紙製品で、私の生活をつつむ
  ただ一枚の衣装で
  いわば、かっぱの背にはりついているアレ。

  精神の恥部はまるだしで
  顔に化粧するご愛嬌。

  このへん、みんなカッパだから
  まあいいや。

  (ひょっとすると人間は、どこかの寓話の川のほとりに、
   住んでいるかも知れないな)

  私はにっこり笑って
  いった
  とてもいい所なんです。

  ある日、遠くからきた新聞記者に答えたこと。


 この詩の中には、二人の人物が登場する。それは、語り手と、「遠くからきた新聞記者」である。語り手が、新聞記者と会話を交わす内に、彼女の胸の中には一つの考えが浮かぶ。その考えとはどういったものなのか、順番に見ていこう。
 まず、語り手は、新聞記者に「お勤めのほうはいかがですか」と問われる。彼女は、「重いですよ、月給が」と意味ありげな答え方をするが、それに対して新聞記者が、「多すぎて重いのですか」と聞くことはさすがになかったという。語り手が言った、「重いですよ、月給が」とは、実は、月給が多いという意味ではなくて、月給が無いと生きていけないため、彼女の生活の中において月給の価値が重い、という意味だったのだ。ここから、語り手の苦しい生活状況が窺える。
 だが、この作品が、語り手の生活苦を直接的な主題としているかというと、実はそうではない。話はここから、もう一段飛躍する。

  それはごく、うすでの枯葉色の
  紙製品で、私の生活をつつむ
  ただ一枚の衣装で
  いわば、かっぱの背にはりついているアレ。

 とある。「それ」というのは、月給袋のことだろう。月給はこの袋に入れられて現金支給される。この、給金の入った月給袋という「うすでの枯葉色の/紙製品」が、語り手の生活を包む「ただ一枚の衣装」であると言う。これは、「重いですよ、月給が」と同じで、彼女の生活苦を表している。しかし、その上で、作者は、この「ただ一枚の衣装」を、「かっぱの背にはりついている」、甲羅に喩える。たしかに、かっぱという想像上の生き物は、丸裸の格好で甲羅だけを背負っている。
 そして、その次の連では、内容が飛躍する。

  精神の恥部はまるだしで
  顔に化粧するご愛嬌。

 これは、一瞬、語り手のことかと思ってしまうが、さらに次の連を見ると、そうではないことが分かる。 

  このへん、みんなカッパだから
  まあいいや。

 語り手は、「このへん」に住んでいる人はみんなカッパであると指摘している。その根拠は、皆の「精神の恥部はまるだし」であるからだと言う。つまり恥ずべき醜い精神を隠そうともしない様子を、丸裸でいるさまに引っかけているのである。そのように皆は比喩の上で丸裸なのに、顔には一生懸命化粧しているという。これは、文字通り容貌ばかりを気にする皆の様子を指しているとも取れるが、体裁ばかり繕うことの比喩とも受け取れる。いずれにせよ、醜い心でいることについては恥じずに、うわべだけを取り繕っている人間の愚かさを、ここでは痛烈に批判している。その上で、そのような皆のありようを、素っ裸のカッパに喩えている。
 ここで、語り手が自分のことを河童であると自嘲する際は、「かっぱ」という平仮名を用いていて、皆のことを河童だと指摘する際は、「カッパ」と、片仮名で表記していることに注意したい。つまり、語り手も他の人間も、同じ河童という生き物に喩えられているが、そのように喩えられる理由が、語り手の場合と他の人間の場合では異なっているため、表記によって区別されているのだ。語り手の場合は、貧乏であるために、比喩上は月給袋一枚の衣装しか着ていない。そのことは、「かっぱ」と表記されている。一方、「みんな」の場合は、これも比喩だが「精神の恥部はまるだし」という状況であり、こちらは「カッパ」という表記になっている。
 なお、「このへん、みんなカッパだから/まあいいや。」という二行から、精神の醜さを指摘されているのが「このへん」の人々に限定されているように感じられるかもしれない。しかし、それは、遠くから来たと言う新聞記者に「このへん」のことを紹介しようとしたから、その関係で「このへん」という語が登場したにすぎない。実際は、「このへん」に限らず、広く世の中に生きている人間一般について、「カッパ」である、つまり恥ずべき精神を隠そうとしない存在であると批判している。そのことは、「(ひょっとすると人間は、どこかの寓話の川のほとりに、/住んでいるかも知れないな)」という二行から分かる。カッパは、想像上の生き物であるため、「寓話」の世界にいる。そして、水辺の生き物という設定なので、「川のほとり」という語が出てくるのである。つまり、ここでは、「人間というものは皆、恥ずべき精神を隠そうともしない『カッパ』である」と言っているのである。これは、タイトルの「カッパ天国」と響き合っている。この「カッパ天国」という語は、「カッパ」ばかりの世界、という意味で使われているからだ。
 語り手は、「このへん」(語り手の居住している地域)も、世の中の例に漏れず、「カッパ」ばかりであると考えていた。しかし、彼女はその思いを飲み込み、新聞記者に、「このへん」は「とてもいい所なんです。」と微笑みながら言う。それは、「みんな」の恥ずべき精神について指摘したところで、新聞記者には通じないと思ったからだろう。
 さて、語り手も世の中の人々も、河童という同じ生き物に喩えられているが、「かっぱ」、「カッパ」というように、それぞれ表記が異なるのだった。このことは、語り手と世の中の人々が、まるで異なる存在として、対比されているということを表している。つまり、語り手は、皆の精神が、本来恥ずべき醜いものであることに気付いているが、それは反対に、語り手自身の精神は真っ直ぐなものであると自負しているのだ。彼女は、本来であれば真人間として胸を張って生きていけるだけの真っ直ぐな精神を持っているが、貧乏のせいで、「かっぱ」に身を落としてしまっている。その真っ直ぐな精神というものが、具体的にはどのような精神なのかは綴られていない。
 だが、ここで、作中の「精神の恥部はまるだしで/顔に化粧するご愛嬌」という箇所に注目してほしい。この表現は、読み手をドキリとさせる。そして、各々の胸に自分の生き方が正しいものかどうか問い質させるという効果を挙げている。「恥ずべき精神」が一体どのような精神なのか、具体的に綴られていないという事実には、読者一人一人が自分の胸に問えば分かるはずだ、という語り手の主張が籠もっているように感じられる。この詩は、読者の存在を補完することによって初めて完成する詩なのである。よって、この作品には、たしかに、真人間としての精神がどのようなものかは書いていないが、その反対の、恥ずべき精神が何かは、読者の手によって自ずと補足される形になっていると言える。
 また、語り手は、自分の生き方を正しいものと認識しているが、だからと言って自分の正しさを他人に押しつけたり、独りよがりな態度を取ったりしているわけではないことを指摘しておきたい。それは、新聞記者に「とてもいい所なんです。」と言っていることからも分かる。
 以上より、この詩は、世の中の人々の生き方が恥ずべきものであることに、自分一人だけが気付いているという状況にある語り手の物語だった。恥知らずな人々の中で、自分だけは真人間として生きようとする語り手の孤独は深い。

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