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コードの通じない語り手 —太宰治の小説「親友交歓」について—

 今回は、太宰治の短編小説「親友交歓」について見ていきます。
 これは、作者の太宰自身であると考えられる語り手の許に、一人の男が訪ねてくる話です。東京において戦争で罹災したために、津軽の生家に避難していた語り手は、そこで小学校の同級生だと名乗る男の来訪を受けます。その男は百姓であり、東京で文学者として成功した語り手に対して、しきりに色々な物をたかります。要するに、勝手に「親友」を名乗るしたたかな田舎者にたかられた、という話なのですが、語り手はこの話をする前に、十全な前置きをしています。その内の二箇所を引用したいと思います。

 昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或る男の訪問を受けた。
 この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。
 事件。
 しかし、やっぱり、事件といっては大袈裟かも知れない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩も何も無く、そうして少くとも外見に於いては和気藹々裡に別れたというだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来ぬ重大事のような気がしてならぬのである。
 とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんも無かった。

 彼は実に複雑な男であった。とにかく私は、あんな男は、はじめて見た。不可解といってもいいくらいであった。私はそこに、人間の新しいタイプをさえ予感した。善い悪いという道徳的な審判を私はそれに対して試みようとしているのではなく、そのような新しいタイプの予感を、読者に提供し得たならば、それで私は満足なのである。

 このような「前置き」をした上で、語り手は本題に入るのです。しかし、この「前置き」の内容と、その後に語られる、訪ねてきた百姓男の実像は、まるで釣り合わないように思えます。この百姓男は、取るに足りないただの無教養な人間にしか見えないからです。そのため、内容と合っていない、この「前置き」については、一体どのように解釈をすれば良いのか、私たちは思わず考え込んでしまいます。今回は、この点について考えていきたいと思います。
 さて、この作品を、語り手が百姓男にたかられるというエピソードと、先ほど示した語り手の「前置き」の、二つのパーツに分けたいと思います。この内、エピソードそのものの方には、何の仕掛けもないと考えられます。たかってきた人物は、いかにもただの面の皮の厚い百姓であることが、作品から伝わってくるからです。そう考えると、それを語っている語り手の方に、何か仕掛けがあると言えるのではないでしょうか。そのために、語り手によるあの不思議な「前置き」が生まれているのではないでしょうか。
 そう考えると、次のようなことが言えます。この百姓男は、「前置き」にあるような、「不可解」な性格を持った人物ではないのです。至極ありきたりで単純な性格の「百姓男」なのですが、その単純な人物に、語り手の方が、「不可解」さを見出しているのではないでしょうか。つまり、百姓その人は、普通の人が見たら、何ら異常なところのない人物なのですが、語り手の見方が、普通の人のそれとは異なっているため、語り手の目には百姓が異常な人間に見えるということなのではないでしょうか。ここで、普通の人とは全く異なる見方で、対象を見ることができるという、語り手の性質が明らかになります。異常なのは、実は、百姓ではなく、語り手の方だったのです。
 では、私たちの目には単純な人間に映る百姓男を、一体どのような見方で見ることによって、語り手は、そこに「不可解」さを見出しているのでしょうか。その見方について、これから具体的に検討していきましょう。
 まず、語り手は、「彼は実に複雑な男であった」と言っていますが、その「複雑」さを見出せる箇所を、作中から引用していきます。最初の引用箇所は、百姓男が、自分に知識のあることを語り手に披瀝しようとして、ありもしない「柊(ひいらぎ)のいわれ」について、それを知っているか、と語り手に問う場面です。

 「やつぱり、でも、いい部屋だな。さすがに、立派な普請だ。庭の眺めもいい。柊があるな。柊のいわれを知っているか。」
 「知らない。」
 「知らないのか?」と得意になり、「そのいわれは、大にして世界的、小にしては家庭、またお前たちの書く材料になる。」
 さっぱり言葉が、意味をなして居らぬ。足りないのではないか、とさえ思われた。しかし、そうではなかった。なかなか、ずるくて達者な一面も、あとで見せてくれたのである。

 ここで言及されている、「ずるくて達者な一面」というのは、百姓男が、語り手の秘蔵のウイスキーを発見し、それを自分の物にして帰って行ったという事実を指しているのだと思われます。ともあれ、この、一見「(頭が)足りない」ように見える男が、実は「ずるくて達者な一面」も持っている、ということを、語り手は不思議がっています。もちろん、これは、普通の感覚では、何の不思議もない事柄であると言えます。無智ではあるが、同時に抜け目のない人物、と言われたら、徳というものを知らない人物の姿が、私たちの脳内で一つの像を結びます。しかし、この語り手にとっては、無智である(「足りない」)ことと、抜け目がない(「ずるくて達者な」)ことが両立する、ということが、「不可解」に感じられるのでした。この語り手は、だから、私たちとは異なる見方で現実を眺めることのできる、独特な人物であると言えます。
 他にも、語り手が百姓男の「複雑」さを感じているのはこのような箇所だろうと想像される場面があります。語り手が、百姓男が語り手の妻のことを裏では「かか」と呼び、面と向かっては「奥さん」と呼んでいることに気づくという場面で、語り手は百姓男のことを、内心、「抜けめのない社交家」と表現しています。このような、百姓の言動の裏表は、普通の人なら誰でも持っている性質のものなので、私たちは、何の不思議も感じません。しかし、語り手は、そのことにも「不可解」さを感じているのです。
 ところで、ここで、作品中盤にはもう一つ「前置き」があることを明かしておきたいと思います。その「前置き」というのは、

   それにまた、彼の談話たるや、すこしも私の共感をそそってはくれないのである。それは何も私が教養ある上品な人物で相手は無学な田舎親父だからというわけではなかった。(略)彼の談話が、少しも私に快くなかったのは、たしかに他の理由からである。それは何か。私はそれをここで、二、三語を用いて断定するよりも、彼のその日のさまざまの言動をそのまま活写し、以て読者の判断にゆだねたほうが、作者として所謂健康な手段のように思われる。

 というものです。この「前置き」はかなり仰々しく感じられます。というのも、実際のエピソードの内容は、ただ単純な性格の百姓男が登場するだけだからです。このような「前置き」を記すというのも、やはり、語り手が百姓を通常とは違う見方で眺めた結果であると思われます。ここで、具体的に、結末を見てみると、語り手は、百姓に、秘蔵のウイスキーを発見された挙げ句、それを奪われて、さらには煙草まで奪われてしまいます。語り手は、「強姦」という極端な言葉さえ連想してしまいますが、それでもまだ受難は終わらず、極めつけに、耳元で、「威張るな!」という言葉を激しく囁かれてしまいます。この「威張るな!」から、文学者として成功した語り手の存在が鼻についたために、こいつにたかってやろうと思ってやって来たという、百姓の心中が窺えます。しかし、語り手がこの男の訪れを受けて快くなかったというのはどう考えても当たり前で、それをもったいぶった言い回しで仄めかすことは、不釣り合いであるように思えてしまいます。つまり、語り手の口ぶりは、深い意味を持たない事柄に、深い意味を見出しているように思え、読んでいる側としては、実に奇妙に感じられるのです。一体なぜ、語り手は、当たり前のことについて、もったいぶった言い回しで「前置き」してから語っているのでしょう。
 それについては、語り手の主張が、論理的に正しいか、間違っているかを考えれば分かります。語り手は、百姓男に対して、「あっぱれ」、「好いところが一つもみじんも無かった」、「東京にもどこにも、これほどの男はいなかった」などと形容しています。今引用した「前置き」も、これらの形容に連なるものです。これらの形容は、論理的には間違っていません。たしかに、百姓男のたかりは、いっそ痛快になるほどで、「あっぱれ」なものであると言えるし、「好いところがない」というのはまさにその通りです。「東京にも、これほどの男がいなかった」というのも、文字通り、語り手はこれまで、この男ほど品の悪い人物には遭遇しなかった、ということを意味していて、これも事実なのでしょう。だから、語り手のこれらの形容は、間違っているとは言えないのです。ただ、それは論理的には間違っていないにも拘わらず、私たちの感覚とはズレています。ある人物からたかりを受ける、というのは、どう考えても不快な出来事ですが、同時に、世間には極めてありふれた出来事であるとも言えます。こういう場合、「ありふれたことをあえて話題に取り上げたり、強調したりしない」というコードが、私たちの間にはあるのです。しかし、語り手は、このコードを共有していない人物なのです。語り手は、論理的には正しいけれど、どこかおかしい発言をしています。そのことは、この語り手が、論理というもののは踏まえているけれど、コードは踏まえていないということを表しているのです。
 この、コードを踏まえていない、ということは、先ほど示した、百姓男の性格についての語り手の認識にも当てはまります。「(頭が)足りない」ことと、「ずるくて達者」であるということが両立することは当たり前である、というのは、私たちが共有しているコードです。しかし、語り手には、そのコードが通じていません。その結果、語り手には、百姓男のことが「複雑」かつ「不可解」な存在に見えてしまっているのです。
 このように、この作品の語り手は、私たちの共有するコードを共有していないという点で、一見、奇妙な人物であるように思えます。しかし、ここで逆転が生じます。それは、実は、語り手の感覚の方が、私たちよりも、正しいと言えるのではないかということです。なぜなら、「(頭が)足りない」ことと、「ずるくて達者」であるということは、よく考えれば、互いに正反対の事柄であり、その相反する性質を持っているという百姓男は、「複雑」な人物であると考えられるからです。また、不快な人物のことを、改めて「不快である」と言うことは、論理的に、極めて正しいと思われます。ここで、語り手は、私たちの共有するコードというものを切り捨てていますが、そのことによって、より純粋に論理的な思考が可能になっているとは言えないでしょうか。
 語り手は、この百姓男と「親友交歓」をしたという出来事を、「私の死ぬるまで消し難い痕跡を残す」事件であると考えています。普通の人が、何の異常性もない出来事としてさっさと忘れてしまうこの事柄について、死ぬまで忘れないだろう、と言っている語り手の存在は、奇妙に見えます。しかし、論理的に考えたら、今まで遭ったことのないほど品の悪い男にあったというこの出来事は、死ぬまで忘れない事件として、自分の胸に刻んでおくのに相応しいものであると言えます。
 このことから、次のようなことが言えます。普通の人は、常識に則って物事を判断しているけれども、それは論理的な思考というものとはまるで程遠いのだ。反対に、一見、奇妙に思えるこの語り手は、実は論理的に正しい思考の持ち主なのだ、と。このように、この小説は、普通の人が見たら何の変哲もない出来事と思える事柄に対して、語り手が、通常とは異なる見方を施すという作品でした。


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