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<愛>によって人は滅びる —小池昌代の詩「記念撮影」について—

 今回は、詩人・小池昌代の詩「記念撮影」について見ていきます。


   記念撮影 小池昌代

  わたしたちの
  つないだ手のなかに闇がある
  その闇のなかで
  あざやかな緑の「野」が育っている
  わたしたちはその場所を知っている
  あんなに広いのに
  椅子をひとつ置くだけで
  きもちがいっぱいにあふれてしまうところ
  手をつないではでかけられない

  明治
  大正
  昭和
  平成

  (つぶれた卵黄だらけの庭で小柄な皇族たちが一斉に右を向き整列している写真)

  いそごうよ
  橋の上にきたら
  ゆっくり手を離し
  闇を裂きながら
  別れていこう
  隣のまちでは今日もひとが燃え、白いけむりがたちのぼっていく

  わたしたちは枝のような顔色で笑う
  つないだ手と手の熱に焼かれて
  たんぱく質のこげる匂いがする

  わたしたちは何に向かってほほえんでいるのか。

  (古い温泉場で外国人が浴衣姿の中年の女性をひざにかかえて抱いている写真)

  あるいはまた、

  (ふきげんな顔の女のこ、その向こうにわき毛の見える若い母親、信じられないほど美しい夏の、百花園の写真。光と影)

  「野」の縁がこげていく
  太陽に焼かれた写真のように

  いそごうよ

  (床に倒れた花瓶、腐った茎の束、明治チョコレートの破れた包み紙、こぼれた水、水、水、廃屋の、誰もふき取らない、暗く、澄んだ水)


 この詩を一読してまず分かることは、地の文と、括弧でくくられた文とが交互に登場しているという事実です。この、二つの形式の文章の内容は、一見しただけでは、それぞれ互いに全く関係がないかのように感じられます。なぜなら、地の文では、「<わたしたち>は繋いでいる手を急いで放し、別れるべきだ」という内容の主張が繰り広げられていますが、その一方、括弧でくくられた箇所では、色々な人々の「記念撮影」(これはタイトルでもあります)の写真にまつわる描写がなされているからです。ただし、括弧で括られた、一番最後の箇所には、「廃屋」の描写のみが登場し、人が映った記念写真は出てこないことを、断っておきます。
 ともあれ、このように、地の文で、語り手である「わたし」の主張が展開されていて、その間に人々の記念写真についての描写が挿入されているという形を、この詩は取っているわけです。繰り返しますが、記念写真にまつわる描写は、少なくとも今の段階では、地の文の内容と無関係に感じられます。そのため、まず、地の文の内容を順に追っていって、その後で、記念写真についての内容を見ていく、そうした手順でこの作品を分析していきたいと思います。

  わたしたちの
  つないだ手のなかに闇がある
  その闇のなかで
  あざやかな緑の「野」が育っている
  わたしたちはその場所を知っている
  あんなに広いのに
  椅子をひとつ置くだけで
  きもちがいっぱいにあふれてしまうところ
  手をつないではでかけられない

 この第一連の内容を読むと、この連において、この詩のテーマはあらかた描き尽くされていると言っても良いのではないかと感じます。第一連は、まず、「わたしたちの/つないだ手のなかに闇がある/その闇のなかで/あざやかな緑の「野」が育っている」と言っています。実際には、人と人とが互いに握った手の中に、緑の「野」などありませんから、この「野」とは、何かの比喩なのだと考えられます。
 そこで、続きを読むと、「野」について、このような説明がなされます。「あんなに広いのに/椅子をひとつ置くだけで/きもちがいっぱいにあふれてしまうところ/手をつないではでかけられない」。この「野」というのは、繋ぎ合った二人の手の中に存在するのに、そこには椅子を一つしか置くことができず、二人では出かけられない場所だと言います。まるで謎かけのようですが、この謎は、「きもちがいっぱいにあふれてしまうところ」という記述に注目すると、すんなり解けます。
 「椅子をひとつ置くだけで/きもちがいっぱいにあふれてしまうところ」と言っているので、この「野」という表現は、実は人間の「きもち」についての比喩表現であったのではないかと推測されます。二人によって繋がれた手の中にあるのに、「きもち」がいっぱいになってしまい、二人では出かけられない場所としての「野」とは、<愛>を指すのではないかという可能性が浮上します。なぜなら、<愛>とは、その感情を注ぐ対象としての他者がいて、初めて湧き起こるものですが、いざ、その感情が生まれてしまうと、「愛しい」という自分の「きもち」だけで手いっぱいになってしまうものでもあるからです。つまり、元々は他者をきっかけに起こった感情であるのに、人はいつのまにか、自己に属しているその気持ちに夢中になってしまいがちなのです。この時、当の他者の存在は忘れ去られています。
 ここまで、二人によって繋がれた手の闇の中にある「あざやかな緑の「野」」の正体は、<愛>というものではないかと推測しました。このような読みの立場を取るとき、「つないだ手」や「闇」という表現も、それぞれ、抽象的な意味を持ちます。「つないだ手」は、愛し合っている二人の関係性を表していて、「闇」というのは、心の闇を指しています。
 さて、次の第二連には、「明治/大正/昭和/平成」と書かれています。これは、その次の括弧でくくられた記述についての補足になっています。すなわち、「つぶれた卵黄だらけの庭で小柄な皇族たちが一斉に右を向き整列している写真」という記述の中の「皇族」という表現について、これは「明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇」を意味しているのだ、という内容の補足です。しかし、この写真については、また後ほど触れたいと思います。

  いそごうよ
  橋の上にきたら
  ゆっくり手を離し
  闇を裂きながら
  別れていこう
  隣のまちでは今日もひとが燃え、白いけむりがたちのぼっていく

  わたしたちは枝のような顔色で笑う
  つないだ手と手の熱に焼かれて
  たんぱく質のこげる匂いがする

  わたしたちは何に向かってほほえんでいるのか。

 次に、ここで引用した箇所について見ていきましょう。まず、「つないだ手と手」から「熱」が吹き出しているところに注目したいと思います。この「熱」とは、<愛>という強い想いによって生まれたものであると想像されます。その「熱」によって、手そのものの肉(「たんぱく質」)が焦げてしまうのです。「隣のまちでは今日もひとが燃え」とあるのは、この<愛>というものの「熱」によって人が滅びてしまったことを表しているのでしょう。この「滅びる」というのは、必ずしも命を落とすことを指すとは限りません。抽象的な意味において、<愛>というものが、それを抱く人(もしくは相手)の存在を危うくしてしまう、そのような状況を描いているのでしょう。つまり、この「繋いだ手の熱で人が燃える」というモチーフは、<愛>というものが、人間を滅ぼし得るものであることを指摘しているのです。

  「野」の縁がこげていく
  太陽に焼かれた写真のように

  いそごうよ

 そして、括弧部分などを飛ばして、地の文を見ていくと、このような三行に辿り着きます。「「野」の縁がこげていく」というのは、手の「熱」によって、繋いだ二つの手の中にある「野」が焦げていくという状況を描写する文章です。ここで、「太陽に焼かれた写真のように」と書かれていますが、この記述は非常に重要です。なぜなら、ここまでに括弧部分でくくられた内容が描き出している、記念写真の数々は、皆、「太陽に焼かれた」ために、色褪せた写真であるということが分かるからです。このことは、これらの記念写真に映る人々が、皆、<愛>によって身を滅ぼしてしまったということを表しています。つまり、まず、語り手の目の前に、数枚の色褪せた記念写真という具象の物体が置かれているという体で、この詩は書かれています。その古い写真から、語り手は、次のようなことを読み取ります。すなわち、これらの写真に映っている、寄り添っている人々の間には、<愛>という感情があったはずだ。この人々は、皆、その感情を育むことによって、自らも、相手も、滅ぼしてしまったのだ、ということです。そして、語り手自身と、語り手が愛している相手(ひっくるめて言うと、「わたしたち」となります)も、このまま<愛>によって結ばれる関係を続けたら、いつかお互いに自分のことしか見ることができなくなるのではないか、と考えて、「繋いでいた手を離して、別れるべきだ」と主張しています。それが、「いそごうよ」という言葉の意味です。
 ここで、先ほど、語り手が、実際に古い写真を目にしているという体でこの作品は展開していく、と述べましたが、その「古い写真」も、本当は具象のものではありません。なぜなら、明治・大正・昭和・平成の天皇が一堂に会することはあり得ず、これは架空の「写真」であると考えられるからです。ですが、語り手は、一応、まず古い写真が数枚あるという体を装い、その写真の人々の間には人間を滅ぼし得る<愛>が芽生えていることを指摘する、という形式を取っているのです。
 さて、ここからは、その数枚の写真について、順番に見ていきたいと思います。その際、特に、「皇族」の写真に注目します。
 「皇族」の写真(明治・大正・昭和・平成の天皇が並んでいる)にも、<愛>という感情が絡んでいます。おそらく、作者の小池昌代は、天皇家が代々続いているのは、天皇の、自分の息子への盲目的な<愛>のためである、と考えているのではないでしょうか。作中では、「つぶれた卵黄だらけの庭」とありますが、これは皇族たちに向かって生卵が投げ付けられたことを表しています。つまり、天皇家は、国民の批判にも拘わらず、代々、家を存続させている。それというのも、皇族たちの、息子への<愛>が、彼らにそうさせるのだ。——このように、小池昌代は考えているのではないかという気がします。論者自身は、この皇室批判には大きく反対を唱えたいのですが、<愛>という文脈でこの詩を読み解くならば、皇族の写真についての描写は、このように解釈するしかありません。
 さらに、「古い温泉場で外国人が浴衣姿の中年の女性をひざにかかえて抱いている写真」や、「ふきげんな顔の女のこ、その向こうにわき毛の見える若い母親、信じられないほど美しい夏の、百花園の写真」なども、互いに親しい関係性を抱いている人々の、何気ない日常を切り取っています。これらの、美しさを感じさせる写真にも、<愛>というものが暗い影を落としているのだと、語り手は暗に指摘しています。
 そして、末尾の、

  (床に倒れた花瓶、腐った茎の束、明治チョコレートの破れた包み紙、こぼれた水、水、水、廃屋の、誰もふき取らない、暗く、澄んだ水)

 という文章は、<愛>によって人が滅びてしまった後の風景を描写しています。これは、写真ではありませんが、記念写真に映っていた人々に、その後、待ち構えていた運命を暗示して、作品は幕を閉じます。
 このように、この詩は、他人を想う<愛>という感情には、自分一人分しか入るスペースがないこと、言い換えれば、他人に対して<愛>を抱いてしまうと、他人のことを想うことができなくなるという真理を描き出しています。普通の人が美しいもの、崇高なものと考えている<愛>に対して否定的な見方を取る、一つの逆説が、この詩を支えています。

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