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美しい比喩 —左川ちかの詩「青い球体」について—

 今回は、詩人・左川ちかの「青い球体」という詩について見ていきます。


   青い球体 左川ちか

  鉄槌をもつて黒い男が二人ゐる。
  向ふの端とこちらで乱暴にも戸を破る。
  朝はそこにゐる、さうすれば彼らの街が並べられる
  ペンキ屋はすべてのものに金を塗る。
  鎧戸と壁に。
  林檎園は金いろのりんごが充ちてゐる。
  その中を彼女のブロンドがゆれる。
  庭の隅で向日葵がまはつてゐる、まはりながら、まはりながら、部屋の中までころげこみ大きな球になつて輝く。
 太陽はかかへ切れぬ程の温いパンで、私らはそれ等の家と共に地平線に乗つて世界一周をこころみる。

 この詩を一読した時点で、読者が抱くのは、「色々な要素が詰め込まれていると同時に、場面が次々に移り変わる作品だ」という感想ではないでしょうか。作品には、まず「黒い男」が登場し、次に、擬人化された「朝」、そして「彼ら」という表現が登場します。それから、「ペンキ屋」、「林檎園」、「彼女」、「向日葵」などが、次々と出てきます。そして、最後には、「太陽」と「私ら」という表現が、登場しています。このように、この作品には、あまりにたくさんの要素が詰め込まれているため、この詩を読み解くのは困難であると思ってしまいがちです。
 しかし、ある一つの言葉に注目すると、この詩は、その意味するところが簡単に分かります。その言葉とは、“金色”です。作中では、まず「ペンキ屋」が色々な物に「金」を塗っている、という場面で、初めて“金色”を意味する言葉が登場しています。そして次に、「金いろ」の林檎で充ちた「林檎園」が登場します。それから、「彼女」の「ブロンド」の髪が登場しています。「ブロンド」の髪とは、金髪を指すので、ここにも“金色”が現れていることになります。それから、「向日葵」が登場しています。向日葵は、黄色の花であり、かつ、「輝く」という表現とセットになっているため、これも“金色”の物体として捉えて良いと思われます。
 このように、作品には途中から、“金色”という一連のイメージの繋がりが存在していることが分かります。しかし、この“金色”のイメージは、一体何を意味しているのでしょうか。
 それについては、“金色”が登場する前の場面に注目すると、分かってきます。

  鉄槌をもつて黒い男が二人ゐる。
  向ふの端とこちらで乱暴にも戸を破る。
  朝はそこにゐる、さうすれば彼らの街が並べられる

 という箇所が、“金色”が登場する前の場面です。ここに、「朝」という単語が登場していることに注目して下さい。鉄槌を持った「黒い男」が戸を破ると、「朝」はその家の中にいたと言うのです。戸を破ることで「朝」が姿を現していることから、ここでは「夜明け」という現象が、比喩的に表されていると考えられないでしょうか。
 そう考えると、先ほど見てきた“金色”のイメージは、どれも日の出の太陽の光を表していると推測されるのです。特に、「向日葵」が次第に大きな球になっていくという描写があります。これは、地平線から太陽が徐々に姿を現す、という現象を如実に表していると言えるでしょう。
 では、この冒頭の、二人の「黒い男」とは、一体何を表しているのでしょうか。それについては、次のように考えられます。「鉄槌をもつて黒い男が二人ゐる。/向ふの端とこちらで乱暴にも戸を破る。」という表現は、まさに「朝」が来る瞬間、つまり地平線を破って太陽が顔を出すその瞬間のことを表しています。この、「朝」が隠れている家の戸を壊す人物として設定されている架空の存在が、この二人の「黒い男」なのです。この二人の人物はまた、「向ふの端とこちら」にいると書かれていて、地平線という一本の“線”の端と端を思わせます。ともあれ、「朝」という抽象的な概念が家の中に隠れていて、その家の戸を破ることで「朝」が来る、という想像が、ここでは繰り広げられています。その戸を破る人物も、もちろん、想像上の存在です。
 さらに、「ペンキ屋はすべてのものに金を塗る」という表現も、「朝」の到来を表しています。日の出によって、全ての物が徐々に照らしだされていくという現象を、ここでは、「ペンキ屋」が“金色”のペンキを塗りつけていく様子に喩えたのです。この「ペンキ屋」も、先ほど登場した「黒い男」も、日の出という一つの現象を支える、黒子のような存在として想定されています。
 その次の内容を見てみると、

  林檎園は金いろのりんごが充ちてゐる。
  その中を彼女のブロンドがゆれる。

 という二行がありますが、これも、日の出という現象を描いたものです。金色の中に、さらに細かな金の光が揺れているという大変美しい表現によって、日の出の美しさを見事に表しています。
 それから、先ほど既に見た、

  庭の隅で向日葵がまはつてゐる、まはりながら、まはりながら、部屋の中までころげこみ大きな球になつて輝く。

 という表現も、地平線に仄かに見えていた太陽が、徐々に大きくなっていく様子を表しています。
 ここまで、第一連の内容が、どれも「朝」の到来、日の出の瞬間を言い表しているものであることを確認しました。それでは、第二連は、どのような内容なのでしょう。

  太陽はかかへ切れぬ程の温いパンで、私らはそれ等の家と共に地平線に乗つて世界一周をこころみる。

 この箇所の、「太陽はかかへ切れぬ程の温いパン」というのは、一体どういう意味でしょうか。また、「私ら」とは、誰なのでしょう。—それについては、次のように考えてみました。
 まず、「私ら」は、「地平線に乗つて世界一周をこころみる」とあります。ここで、「地平線に乗つて世界一周」をする存在として、作中で提示されている「私ら」の他に、「日の出」が挙げられます。いつも世界のどこかでは「日の出」を迎えているという事実を考えれば、「日の出」という現象は、毎日世界一周をしていると言えるからです。もちろん、実際は、太陽が地球の周りを回っているのではなくて、地球が太陽の周りを回っているわけです。しかし、「日の出」が世界一周をしているという考え方をすることもできるというのは、分かっていただけると思います。—ここで、「地球」という語が登場しました。作品のタイトルの「青い球体」とは、言うまでもなく、地球を指しています。ここでは、「日の出」が毎日一周している、地球という存在が、タイトルになっているのです。
 このように、「日の出」は毎日地球を一周するのでした。そのため、同じく世界一周するという「私ら」は、「黒い男」や「ペンキ屋」と同じように、「日の出」という現象を支える黒子的な存在であると考えられます。では、一体、どのような役割を担っている「黒子」なのでしょうか。
 それは、「パンを人々に配る」という役割を持った「黒子」です。作中では、「太陽はかかへ切れぬ程の温いパン」と表現されています。この「太陽」という名の「温いパン」を、一つずつ人々に配る役割を担っている黒子、それが、「私ら」なのではないでしょうか。つまり、こういうことです。ここでは、「日の出」という現象、もしくは「朝」の到来という現象が、人々に「太陽」というパンが配られる、という比喩によって喩えられているのです。その「パン」を人々に配る存在が、「私ら」であるというわけです。つまり、語り手を含む「私ら」は、実は架空の存在であると言えるのです。普通、語り手は確固たる現実の存在として登場するということを考えると、これはやや異例であると言っても良いと思われます。
 「私らはそれ等の家と共に地平線に乗つて世界一周をこころみる」の「それ等」というのは、直接的にはパンのことを指します。しかし、パンとはつまり太陽なので、これは結局は太陽のことを指しています。だから、「それ等の家」とは、太陽の家のことなのです。太陽の家とは、第一連で、「朝」を閉じ込めていた家のことです。この「家」には、敷地の中に林檎園や庭が付いています。もちろん、これらはすべて、架空の場所であり、「日の出」という現象を比喩的に表すために登場しています。その、太陽を隠した想像上の「家」と共に、「私ら」は毎日地球を一周しているのです。
 ところで、作中の「朝はそこにゐる、さうすれば彼らの街が並べられる」の「彼ら」とは、私たち人間のことを指しているのではないでしょうか。つまり、太陽の光を受け取る側の存在のことです。「彼らの街が並べられる」とは、私たちの住む街が、朝日を受けて暗闇から浮かび上がってくることを指しているように思われます。
 このように、この詩は、「日の出」を人々にもたらす架空の存在を描き出していました。作品の、「日の出」を描写する比喩の美しさは圧巻だと言えるでしょう。



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