見出し画像

一緒に居たい人

松の内も過ぎて、やっと夫と子どもたちと自宅でゆっくり過ごせる…と思っていたけれどひたすら眠くて気持ちも浮かなかった3連休。

ゲッターズ飯田のメルマガの言葉でさえイライラしてしまうくらい、頭の中がギュッと縮こまっていた。

年末年始の義実家での恒例のあれこれ(「渡る世間は…」的な。はたまた昼ドラのような…)のモヤモヤがまだ頭にこびりついている。
切り替え上手にはなかなかなれない。

私の義母は "蝶よ花よ" とみんなからされていたいタイプらしい。
take&take。一見、giveに見えるものも、結局はいつもtakeなので「え〜…」となるけど、最近それは慣れてきた。

未だに慣れないし1番苦手なのが、
義母が自分でも制御不可能な機嫌に任せて、何かちょっとしたきっかけから言葉に(態度にも)ナイフや機関銃を仕込んで口撃してくること。
自分の頭と胸に湧いたことを一気に吐き出してきて、相手の話を聞く構えは無い。。


そんな時に頭に浮かぶ2択。

①「それはどういう意味で言われていますか?」と聞いてみたい…
最終目的は何ですか?と。喧嘩になってもいいから。

②さらっと流して、話を合わせておいた方があとが楽。子どもたちに飛び火するのは何より嫌だし、私がおかしい事をしていなければ喧嘩両成敗にもならないのだから。
"一方的におかしいのはあちら" という構図を崩すまい。

今までの数年間は、私の足りなさが招いている状況なのだろうし…という自責の念が大きくて自然と②を選択していたのだけれど、
昨年の11月あたりからはたまに①も選択するようになった。
(私のアラフォーというバージョンアップのせいか、義母が歳を重ねてパワフルさに翳りが見えてきたからなのか、それとも他の要因なのか)

そもそも年長者は立てるものと思っていたし、私の気持ちを言葉にしてもその真意が伝わることはないだろう と感じてしまう相手に、自分の中のあまり見せたくも無い部分(同時に大切な部分)を明かすことは、想像するにどうにも虚しい。

そしてきっと、あとに残るのは私の大きな後味の悪さだけ…というイメージが浮かぶと一気に選択する気が失せていく。
自分の末っ子気質を活用して、"懐っこい嫁"でいるのが1番妥当だろうと、基本そのように振る舞っていた。

義母は、"お友達と呼べる人"…はかろうじて居ても、気軽に会ったりお茶をしてお喋りをするような相手がいない。全くいない。
この土地に来て30数年経つはずだけれど、人との付き合いがあっても結局は自分から縁を切ってしまうか、相手に距離を取られて疎遠になるかのどちらか。

「あんな人とは思わなかった。私はひどい事をされた」という解釈をしていつも終わってしまう。
でも、倍返しでも余りあるくらいに義母が相手に対して凄い事をしているのは容易に想像が付くし、実際に相手から、義母をすっ飛ばして私に相談や、時には相談という名目で実際のところは苦情の連絡が来ることもあった。

相手の話を聞いていると、
「でもあなたは本当によく頑張ってると思うわ。あの人が身内で、しかも立場的にもしんどいだろうし。体壊さないようにね。溜め込んだらいけんよ。」
とか言って、私を可哀想がる事で落ち着くらしく、最後には穏やかに話が収まってしまう。
そして義母からは去っていく。

還暦や古希のマダム達に、気づけば巻き込まれてマウンティングされてるよな、わたし。。
と思わなくもないが、実害がある訳じゃないから、まぁそこは流すことにしている。

基本的に、義母とそこまでの関係になる人たちは私の基準で見れば
"まぁまぁ優しい人たち"だ。

普通に生活をされていて、地域でもお世話役を頼まれているような人たち。

あ。でも私なら友達にはならないかな…プライド高い人の率高いから苦手かな。。

最初から悪意があるような人は、そもそも義母と近くなることもない。

今のところ全部のパターンがそれだ。

私は、人からあからさまな敵意や依存をものすごい熱量で向けられる事は義母に会うまで経験が無かったと思う。

毎回、向けられた熱量に比例して気持ちが揺さぶられ、私の心の中に摩擦熱のようにヒリヒリした悲しい気持ちと嫌悪感が生まれて広がっていく。
義母は絶対にしないだろうけど、きっと調べてみれば何かしらの人格障害に当てはまるのだろう。

義母に似てはいるけれど、義母よりはずっとマイルドで、子育てしながら仕事も頑張っている義妹自身は、大学時代に"境界性パーソナリティ障害"と診断されたと言っていた。

"なぜ義母がこんな言動を繰り返すのか"

という疑問に、「私」の存在を消して考えてみると(出会って何年かは私の至らなさだと思ってひたすら"原因"のベクトルは自分に向いていた)
義母の生い立ちを考えていくことにどうしても繋がった。

他人の事をネガティブに詮索するのは無粋だという感覚は少なからず持ち合わせていたので、最初はそんな見方をすることに罪悪感があった。
けれど、異常さ(それは義母なのか、私なのか、あいまいなまま)にこれ以上は耐えられないと感じた時から、そこを考える事は避けて通れないと思うようになった。

義母本人や親族からこの10数年で聞いた話をもとにすると、

"戦後を生き抜いてきた親に育てられ、大人になり高度成長期を支えてきた団塊の世代の方に共通するであろう部分"
が根本にあることに加え、もともとの感覚の敏感さ繊細さを、周りに十分に受け入れてもらう経験が少なかった事で(もしくは求める気持ちが大きすぎたのか)とても屈折した思考のクセが付いているのだと思えた。

また人の生死が関わる大きな出来事で、義母が長い間、罪悪感を抱えていたことも関係しているようだった。

とてもよく似た人生を送ってきた人を私はもう1人知っている。私の実父だ。

そして、加えてその2人に共通しているのは、歯を食いしばって、人一倍努力をしてきたという事だった。怒りと悔しさ、哀しみがその燃料になっていたこともよく似ていると思った。


…普段から話が長いのは自覚しているけれど、文章も長いな、まとまらないな。。
このまま出していいものか、怖気付きそうになっているけど、、出させてもらおう。
もっと怖いけど、自己満足の域で続きも書いてみよう。

もしも、どなたかの目に触れていたとしたら、貴重なお時間、拙い文章にお付き合いくださってありがとうございます。

世間ではよくある話だと思うのですが、この辺りの自分の中のモヤモヤを外に出してみる という事をしてみたくてポチポチと言葉にしています。
もうしばらく、実験をしてみようと思っています。

*akiyamaikumiさんのお写真。
雰囲気があって素敵だと思いました。
以前は自分で撮った菜の花の写真をあまり何も考えずに載せていたのですが。
氣持ちに合う写真に変えたくなって、投稿から4ヶ月も経った今、こちらのお写真を使わせていただきました。ありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?