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歓迎会【短篇小説】

 高架下の大衆居酒屋。この時間の新橋は、叫ぶように声を張り上げなくては目の前の相手にすら声が届かない。
 雑踏の喧騒は耳朶に分厚い壁を拵える。グラスとグラスの触れ合う音、甲高い笑い声、愚痴、オーダーを取る声、当たり障りのない会話、椅子を引く音、気まずさを誤魔化すための茶々、愚痴、愚痴...。発する音は別の音に掻き消され、忽ち混沌の中に呑まれてしまう。耳を澄ましても音の信号が意味を持って伝わることはなく、機密性の高い話はかえってこうした人混みの中で行われたりする。近すぎると何も見えず、何も聞こえなくなるのだ。
 先輩は僕の頭を容赦なく殴り続けている。周りの客も、同席する他の先輩も、まるで僕がここに存在していないかのように、何の反応も示さない。先輩の眼は血走り、恐竜のように鋭く僕を睨みつけている。叱咤は僕にだけはっきりと伝わる。それは言い逃れのできない雁字搦めの正論であり、決して理不尽に怒鳴られていないことのタチの悪さに、かえって反抗心のような、思いがけない感情が芽生えかける。僕は髪を掴まれ、お前はクズだと罵られる。僕は自分がクズなんだと納得する。冷静でいるのか、思考能力を失っているのか、まるでわからない。居酒屋の喧騒は余計な情報を遮断し、先輩の人殺しのような形相だけを鮮明に浮かび上がらせている。薄ぼやけて見える店の客は、仲良く誰かの愚痴を言い合って楽しく酒を飲んでいるのだろう。その中に紛れて中国人のスパイが国家機密をリークしている。広東弁でも北京語でもない強烈な方言で伝えられるその情報は、日本経済を破綻させるほどの力を有している...そんなことを必死に想像する。あぁ、僕は今、殴られている。右側頭部を、歯止めの効かなくなった強い力で。いてもいなくても変わんねぇよと言われた時、僕は不思議な生き物を見た。

 体は分厚い紅の毛皮で覆われており、体長は、2mほどあるだろうか。とにかく、大きい。手足の指は3本ずつ、奇妙な長さで生え揃っていて、どの指にも鋭い爪が生えている。掴まれれば体ごと引き裂かれそうな強靭さ、恐ろしさを、その指先から感じる。
 しかし、二本足で屹立する毛むくじゃらの獣に、攻撃意思はないようだ。むしろ、親近感というか、憐憫に似た感情を、僕は抱いた。
 獣は、細長い持ち手のついたお面を持っていて、顔全体を覆い隠していた。平板な面にはいくつもの奇妙な目が描かれていて、それぞれ個性的に笑うような形をしていた。不気味なお面だと僕は思った。
 ぜああざじゃすつうまっち、と獣は“言った”。鳴き声や咆哮の類ではなく、人の言葉を喋ったように聞こえた。低い声だが少しもくぐもっていない。脳内にクリアに残る発声だ。僕の脳へ直接語りかけているのかもしれない。突然喋るものだから動揺してしまったが、この言葉には聞き覚えがある。たしか、英語でThere’s just too much(とにかく多すぎる)。海外の芸術家が残した言葉だったはずだ。最近見た動画に出てきたからよく知っている。でも、どうしてそんな言葉を獣が口にするんだ?
「ちかくのものを見ない。すいみんぐすくうる。ほんねで話をするのならかめんをつけなくてはならない。はやくうちゅうを切り替えなくてはならない」
 獣は低く、驚くほど聞き取りやすい声で喋っている。聞き取りやすいが、何を言っているのかはうまく理解できない。冷静でいるのか、思考能力を失っているのか、まるでわからない。
 周りの音は一切聞こえなくなった。だけど僕はまだ、新橋の居酒屋にいる。おそらく、このままではダメなような気がする。このままでは、無垢なままスポイルされてしまう気がする。社会に歓迎されて、人間を捨てる。あぁ、また近くのことを考えてしまっている。頭が痛い。
 “ほんねで話をするのならかめんをつけなくてはならない”。獣はそう言った。「人間の方も辞職しちまえ」。これは誰の言葉だ?
 僕は意識を遠ざけようと努力する。I have a plan to go mad。どこかで聞いたことのある言葉。

 僕は小さい頃から水が大嫌いだった。生まれてから一度も水を好きになったことがない。風景画の水でさえ見るのが嫌だった(これはどこかで聞いたことのある言葉)。
 僕の水嫌いは、親に入れられたスイミングスクールで決定的になった。もともと水に対して良い印象を持っていなかったのに加えて、泳ぐという行為がうまく理解できなかった。何が面白くてばたばたと足を上下させなければならないのだろう。僕たち生徒は水に浸かりプールサイドへしがみつきながら、指導員に足を掴まれて無理矢理拙い水飛沫を上げさせられた。
 マツモトという男の指導員は、全身にびっしりと体毛を這わし、軽快にギャグを飛ばしながら女の子にばかり教えたがって、あたかも生徒人気がある先生のような顔をしてやたらと幼児の体を触っていた。幼い女の子たちは、歪んだ性志向が自分達に向けられていることをうまく理解することができず、無垢に受け入れることしかできないようだった。中にはマツモトに本気で懐いている子供もいたような気がする。かわいそうに。僕だけが、そこにある不自然の気持ち悪さを悲しいほど強く感じ取っていて、その正体を少なからず理解していた。
 そのうち、マツモトの声を聞くだけで気分が悪くなる体になってしまった。声から逃れるために水の底へ顔を沈めて、半分溺れたこともある。マツモトは何度も溺れる僕を気狂いだと思ったらしく、親にもそう言って報告した。マツモトとしては、僕が溺れて死んだ時自分の責任にされるのが嫌だから、早く辞めさせてほしかったのだろう。僕もいち早くスクールを辞めたかった。母は、息子の癖を直すために丁寧な指導をお願いしますと答えた。僕は本心を言うことができず、泣いて恨んだ。

 僕は今、深い水の底に沈んでいる。何も見えず、何も聞こえない。静けさという液体に全身が浸っているようだ。重力のない状態では、思考さえも浮遊する。息は吸えない。だが、苦しくはない。自分の顔を触る。凹凸の一切ない、つるつるした硬い手触り。確かに、仮面をかぶっている。
 心を閉じ込める。いや、心を、遠い記憶で覆い隠す。紅い獣が顕れる。「ほんねでおはなししよう」。獣が消えていく。僕は、どこにいるのか。冷静でいるのか、思考能力を失っているのか、まるでわからない。




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