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完成された風景【短篇小説】



 一昔前に、「願いの叶う待ち受け」というものが流行した。お絵描きAI「Vandal(ヴァンダル)」の生成した架空風景を待ち受けに設定し、実世界で同じ景色を見つけたら願いが叶うというのだ。
 その頃は誰もがAIに対して一種の神秘性や超自然的な力を期待していたこともあって、このインターネットミームは一瞬のうちに拡散した。人々は画像に近い場所を探しては、比較写真を投稿して楽しんだ。
 ただし、そこに科学的根拠や確たる実例はなく、「願いの叶った人」がいたのかどうかは分からぬまま、ブームは終了した。

 数年後、この待ち受け画像は「Vandal」がサービスを終了したことによってNFTとして高額で取引されるようになった。特に、有名人が投稿していたり、実際に願いが叶ったとされる画像は価格が高騰し、80億円で取引されるものもあった。

 都市伝説化したVandalの待ち受け画像は、いつしか一部の投資家が営利目的で取引するための商品としか扱われなくなった。


         ***



「もしも俺に絵が描けたなら、きっと上手だったんじゃないかな」とKは言った。僕は「そうかもしれないな」と返して、吸っていた煙草をキャンバスに押し付けた。

 当時僕らは美大に通っていて、美術を志す者が陥りがちな、少し頭のおかしい時期だった。同い年の大学生はスーツを着て就活をしているか、既に就職先が決まった者ばかりであるのに、僕らはいつまで経ってもおんなじところを彷徨いては、くだらない戯言と煙草をぷかぷかふかしていた。



「俺さ、絵を買ったんだ」
「ほう、どんなやつだ」
「こいつだよ」
 Kはスマホの電源を入れた。ロック画面に雪を纏った木の画像が映し出された。

「Vandalの待ち受けじゃないか」
「なんだお前、知ってるのか」
「知ってるも何も、右下のマークを見れば誰だって分かる」

「よく描けた絵だろう」
「高かったんじゃないのか」
「100万した。貯めてたバイト代全部使っちまったよ」
「なんでまた。投資なんて柄じゃないだろう」
「違う、投資じゃない。そんなもん両眼にクソが詰まったくだらん連中のやることだ」
「詐欺にでも遭ったのか」
「違う、俺は人を騙すことはあっても騙されることはない」
「じゃああれか、願いが叶うとかいう迷信に肖ろうとって腹か」
「違う。おい、つまらん冗談はやめてくれ。単純にこの絵が気に入ったから買ったのさ」
「AIが描いた絵を?」
「そうだ」
「ふん、お前の方がよっぽどつまらんね。こんなもん、何の芸術理解もないコンピューターが暇つぶしに作成したアルゴリズムの一試行結果に過ぎんのだぞ」
「そうだ、その通りだ。でも俺は、この絵を心から美しいと思ってしまった」
「皮肉だな」
「皮肉さ、この絵の背景にある何もかもがな」
 Kは10本目のチェインスモークを地面に擦り付けた。

「なあ、俺たちがいるこの世界に、この絵と同じ景色が存在すると思うか」
「さあな、Google様に聞けば分かるんじゃないか」
「お前、そう芸のないことを言うなよ」
「芸のないも何も、この世で最も合理的な解答をしたまでさ」
「Googleには分かるまいよ」
「なぜそう言える」
「俺が美しいと思ったからだ」
「そんなの屁理屈だ」
「そうさ、屁理屈さ。だけど俺の審美眼にも一つの論理はある」
「どんな論理だ」
「この絵はまだ完成していないんだ。だからこそ美しく、Googleでもこの絵と同じ風景を見つけ出すことができない」
「完成していない?ただのバグじゃないのか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。原因はなんだっていいんだ。とにかく、未完成なものには決まって美が潜んでいる」
「やけに執着するんだな。もっかい見せてみろよ」
「ほら」
「さっぱりわからんな。こんなもん雪の降る土地に行けばいくらでも見られるだろう」
「そうでもない。この木には霊妙で特別な美がある」
「ふうん」

「ああ、一度でいいから見てみたいなぁ。もし見れたなら、死んだっていい」
「ふん、せっかく願いが叶うってのに死んじまうのか。もったいねえなぁ」
「はは、それもそうだな」
「死んじまう前に何か願い事しとけよ」
「そうだなぁ、願い事かあ...」

 考え事をするKの姿がどこか物欲しそうだったから、僕は残り一本になった煙草をやった。

「一生芸術で生きていけるように願っとくかな。あと、AIなんかクソ喰らえって」
「ふん、なんだそれ」
 僕らはくだらない会話に笑って、キャンバスをしまった。遠くでは一日の仕事を終えたサラリーマンの群れがぞろぞろと歩いていた。


          *


 Kは大学を辞めた。そしてそのままどこかに姿を消してしまった。僕はKを勝手に親友だと思っていたから、何の連絡もよこさずにいなくなったのは少し意外だった。ただ、美大の学生が蒸発するのはよくあることで、Kの失踪自体にはさほど驚かなかった。

 僕はといえば、なんとなくSNSに投稿していたイラストが話題になって、フリーのイラストレーターとして活動を始めていた。
 最初は小遣い稼ぎ程度にしか考えていなかったのだが、いくつか依頼や案件をこなしているうちに、自分でも驚くほどの金が入ってきて、気づけばイラストだけで十分暮らしていけるようになっていた。依頼にはAIが絡むものもあって、仕事でAIを用いる度に、Kのことを思い出した。


 年を取って、一生縁がないと思っていたスーツを着る機会も多くなった。そして、それよりずっと縁がないと思っていた結婚というものをした。
 スーツを着てAIと仕事をし、その上家庭を持ったなんて知ったら、Kは何と言うだろうか。本気で失望されるかもしれない。あの頃の僕たちは、結婚ほど不潔なものはないと頻りに論じ合ったものだ。人生は何が起きるかわからない。


 新婚旅行と称して、僕らは二週間ほど北欧へ滞在することになった。のんびり美しい自然を堪能しようと、ガイドもつけずに有名な湖やフィヨルドを見て回った。二人ともイラストを描く仕事をしていることもあって、印象的な風景に出会う度に足を止め、気の済むまでスケッチをし、出来上がった絵を互いにデフォルメし合って楽しんだりもした。おそらく周りの人の目には、新婚旅行というよりも熟年夫婦の慰安旅行に見えただろう。けれど、僕らにとってはそんなゆったりとした時間も感動的で、___こんな言い方をするのは気恥ずかしいのだけれど___互いの愛を深めながら旅程を進めていった。


 旅の終盤、ヘルシンキのパブで知り合った猟師に犬橇を体験させてもらうことになった。 
 訓練されたシベリアンハスキーたちは三人分の体重をものともせず、雪上を疾駆した。僕らは勇猛に駆ける犬の愛らしい後ろ姿と、左右に連なった針葉樹が作り出す北欧的な自然美を愉しんだ。
 しばらく橇を走らせたところで、一陣の突風が僕らの視界を奪った。サミー(猟師の名前だ)は手綱を思い切り引いて橇を止めようとしたが、犬たちは無視して走り続けた。風は連続的に吹きつけて、僕は前が見えないまま制御の効かない橇が進み続けていることに、とてつもない恐怖を感じた。ホワイトアウトの中、厳しい寒風と雪片を強く浴びながら、激しく揺れる橇の先へ懸命に掴まることしかできなかった。


 ようやく指示が届いたのか、ある地点で橇は急停止した。視界は奪われたままだったため、僕らは犬と橇が離れてしまったのではないかと不安になったが、サミーの呼びかけに反応した犬たちの声が聞こえて胸を撫で下ろした。
 風が止み、舞っていた雪が落ち着きを取り戻して、徐々に視界が晴れていった。

 そこは何一つない純白の雪原だった。薄暗い靄が空と地面の境を幻想的に霞ませるおかげで、遠近感や色彩感覚、その他全ての視覚的効果が失われていた。何もかもがそっくり取り払われた銀世界に佇む僕たちは、真っ白なキャンバスに誤って付着したインク染みのようにちっぽけで、場違いに感じた。僕は無の境地を前にして言葉を失ってしまった。妻も感情の表出方法を忘れてしまったようで、茫然自失としていた。
 サミーはすぐに発進の指示を与え、「彼らは向かうべき方角が分かっている」と言って僕らを安心させた。犬たちは迷うことなく走り出した。その後ろ姿は本当に向かうべき場所を心得ているようだった。
 橇はかなりの速度で滑走しているはずだったが、周りに目印となるものが何もないせいで果たして本当に進んでいるのかどうか分からなかった。時々後ろを振り返ってみても、変わらず脱俗的な雪原が広がるだけで、広大な銀世界はもはや何の感興も齎さなかった。それでも、颯爽と駆ける犬たちの様子はとても頼もしく感じられた。

 しばらくして、凍った靄の隙間から薄陽が差し込み、雪原を仄かに照らし始めた。僕らは雪面の僅かな照り返しに目を眩ませながらも、視界が明るくなったおかげで遠目に黒い物体を見つけることができた。何らかの目印を発見したことは三人の気持ちを忽ち軽くさせた。サミーは犬たちへ指示を送り、その目印に向けて橇を走らせた。


 それは一本の樹木だった。先程まで見ていた針葉樹とは形も大きさも異なるこの木は、何もない雪原の上で生えるべき場所を間違えたかのようにぽつんと聳え立っていた。
 サミーは「こんな形の木はここらではまず見ない」と感心していた。犬たちは鷹揚に構える木の威光へ恐れを感じたのか頻りに吠え始めた。僕と妻は神秘的な木姿に恍惚としながら、凍りついた葉の纏う雪の形や放縦に伸びた枝々の線を見て、美術的なイメージを膨らませていた。
 僕はふと、この木がいつか見たKの待ち受け画像とそっくりであることに気がついた。あの時はさんざんばかにしていたが、なるほどこの木は確かに美しい。連絡がつけばビデオ通話で見せてやりたいところだが、あいにくKは消息不明のままだった。僕はひとまず目の前の景色を写真に収めて、橇へ戻った。犬たちは未だに吠え続けていて、サミーが黙らせるのに数分かかった。
 道中、興奮したサミーの四方山話を聞きながら、宿泊していた街へと帰り着いた。僕らは冷えた体をロッジで暖め、彼とシベリアンハスキーにたっぷり礼をして別れた。

 ホテルの部屋で、昼に見た神秘的な光景の絵を描こうと、撮った写真をパソコンに表示した。写真は思っていたよりもずっと鮮明に撮れていて、僕は自分のカメラを褒め称えた。妻に見せると、彼女は画面を指差して「こんな人いたかしら」と言った。画像をよく見ると、木の下に男の人影があることに気づいた。僕はその部分を拡大して驚いた。Kが写り込んでいたのだ。何度見返しても、雪原の孤独な木の下に学生時代と同じ格好をしたKがぽつねんと突っ立っている。僕は困惑した。どうしてフィンランドの雪原にKがいるんだ?それに、どうして画像の中だけなんだ?
 どれだけ考えを巡らせても僕の頭だけで処理できる問題ではなかった。妻にもこの不可解な人影について意見を求めたが、彼女は不思議そうに首を振るだけだった。


 僕はもう一度雪原へ行こうと思った。
 急いでサミーにそのことを伝えると、彼は快く承諾してくれた。僕らは翌日の朝から今日と全く同じコースを走ることになった。

 針葉樹林を駆け抜けて、広大な雪原を目指した。しかし、どれだけ探しても雪原に辿り着くことはなかった。延々と連なる針葉樹は、どこかへ抜けていくような道や隙間を示すことなく、僕らを無意味に周回させた。とても近くに雪原があるような雰囲気ではなかった。僕らは探索を諦め、ロッジに戻った。
 ロッジで寛いでいたサミーの知り合いに話を聞くと、この辺りは一帯がタイガに属しているから、雪原などあるはずがないと言われた。確かに、Googleマップで調べても雪原が広がっているような地形は見られなかった。
 僕らは狐につままれたような気持ちで呆然とした。もう少し詳しく話をしたかったけれど、明日のフライトがあるため長居はできず、サミーや彼の仲間たちと別れてホテルに帰った。


 パソコンを開くと、写真が消失していた。僕はなぜだか前もってそのようなことが起こる予感を抱いていて、雪原の写真が消えているのは当然だと思った。

 ひどく疲れていた僕たちは、サミーに貰ったウイスキーを酌み交わして新婚旅行最後の夜を締め括った。

 結局、のんびり観光しようとしていたはずの新婚旅行は、雪原と不可解なKの出現によりかつてないほど刺激的な旅になった。


          *



 帰国した僕は、どうしても忘れることができないあの雪原の木を鮮明に思い浮かべて、久方ぶりのキャンバスに絵を描いた。あれだけ美しいと感じた光景も、いざ筆を取って絵にしてしまうと、どこにでもある平々凡々な風景画に見えた。だから僕は、木陰にそっと二人分の人影を描き入れた。

 出来上がった絵画を撮影し、スマホの待ち受け画面に設定した。僕は遠くに見えるサラリーマンの群れを見つめながら、妻に止められていた煙草を吸った。


 Kはどこへいってしまったのだろうか。フィンランド中、いや、Googleマップに載っている全ての場所を探しても、きっと見つからないような気がする。

 どこにいたっていい。いつか、呆れるくらい美しい場所で再会することを願っておこう。



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