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東京towers【短篇小説】


 赤色。僕はこの色について、あまりよいイメージを持っていない。苦手な色、と言ってもいいくらいだ。
 地元のサッカースクールに所属していた時、0-13という、感情を失ってしまうようなスコアで試合に負けた。対戦相手は真っ赤なユニフォームを着て、嬉しそうな顔ひとつせず、ただ淡々とピッチを去っていった。その時だろうか、僕が赤色に対して残酷なイメージを持ち始めたのは。いや、初めて唐辛子を口にした時から苦手になったような気もする。見知らぬ酔っ払いに罵倒された時からかもしれないし、前に住んでた家が焼け崩れた時からかもしれない。とにかく、僕は赤色という色を目にするたびに、何かしら嫌なイメージが浮かんできて、思わず目を背けてしまう。「赤坂サカス」とか、「赤道」とか、「赤ちゃん」とか、赤という漢字が入ってる名詞ですら苦手だ。赤ちゃんは人より好きなのだが、文字で見てしまうとどうしても顔を顰めてしまう。どうして「赤」ちゃんなんて呼び名にしたんだ、まったく。

         ***


 すっかり色づいた芝公園に寝そべりながら、この空の高さと左ハンドルとの関係性について考えていた。都会の休日らしい、雑多な声が聞こえる。もしも僕が楽器を弾けたなら、この朧げな気持ちにも少しばかりの輪郭を与えることができるのに。
...上体を起こす。
「誰にも拾われることのないブサイクな猫について詩を書いたの」
 彼女はそう言って短い詩を朗読した。その姿があまりにも楽しそうで、僕はじっと彼女のことを眺めていた。
「ねぇ、面白い話をして」
 乾燥して硬くなった芝を弄ぶ、昔見たフランス映画のワンシーンのような言い方。
「小学生の時、授業で詩を作ることになったんだ。どこかに出品したり発表するわけでもなく、ただ日本語を学ぶ一環でね。もちろん、僕は詩なんて作ったことがなかったし、詩の作り方だって知らなかった。だけど先生が、今考えていることを書いたら詩になるって言ったから、僕は[ピノ食べたい]って書いて提出したんだ。そしたら先生から呼び出されてものすごく怒られた。“詩を書きなさい”、ってさ.....面白いかな?」
「面白い」彼女は笑って、握っていた芝を宙に放った。「ねぇ、私のことを書いて」
「だめだ」
「どうして」
「君を傷つけることになる」
「どうして」
「僕が残酷な人間だから」
「そう、残念」
 飼い慣らされたゴールデン・レトリーバーが唾液だらけのゴムボールを追いかけている。彼女は一掴みの芝を挘って握りしめた。まるで赤子が未知の物体を掴んで世界を知ろうとするように。

 できるだけ高い建物を下から見上げたいと彼女が言ったものだから赤羽橋で降りたものの、近づいてしまうとどの建造物も低く見えて、結局僕らは仰向けになって空を見上げていた。秋晴れの空は、太陽の清潔さを余さず吸い込んだようにきりりと澄んでいて、どれだけ遠くへ目を遣ってもきりがなかった。
「このままずっと横たわっていたい」と彼女は目を閉じて言った。「ねぇ、もしも私の身体が驚くほど軽くなって、絵本の中の赤い風船みたいに、この東京の空の彼方へ飛んでいなくなってしまったら、そしたら、あなたはどうする?」
 僕は昔観たゴダールの映画で「女はもしもの話を好む」という科白があったのを思い出し、少し可笑しな気分で空を見上げていた。もしかすると、僕はもしもの話をする女の子に惹かれやすいのかもしれない。
「さぁ、どうだろう。君の小説を書くかもしれないな」
「ねえ、ひどい」
「そうさ。どうだって僕は残酷な人間なんだ」
「私はつい最近あなたの夢だって見たのよ」
「ほんとに?」
「ほんとよ!ちゃんとノートに残してあるもの。私は見た夢の内容を絶対に覚えてるの。私が人に自慢できる数少ない特技の一つ」
 比較的長い時間をかけて白いトートバックから一冊のノートを取り出した彼女は、「そのまま」と言って、起きあがろうとする僕の胸を押さえつけた。「何かとてつもなく恐ろしいものに追われているの。そして全速力で逃げているところ、それが始まり。目の前に扉が現れて、私は迷わず扉を開けて中に入る。中ではカーネーションの直枝政広とマカロニえんぴつのはっとりくんが楽しそうにデュエットしていて、私も二人に混ざろうとするんだけど、すぐそこまで恐ろしいものが迫っているから、惜しいけれど急いで部屋を出てしまうの。そしたらまた次の扉が現れて、私は迷わず開けるんだけど、そこは大量のおばあちゃんと大量の仕事人がぎゅう詰めになっていて、とても入っていけるような隙間もないわけ。私は仕方なく扉を閉めるんだけど、その時すぐ隣にはっとりくんが現れて、私の耳元で『ブルーベリー・ナイツ』を歌ってくれたの。贅沢だなー、って思って聴いていたら、私は別の部屋にいて、そこはなんと「モー娘。」の事務所で、モー娘の事務所にはモー娘専用のタオルと、モー娘専用のクッキーと、モー娘専用の歯ブラシと、それからモー娘専用のお手洗いがあるの。もちろんモー娘専用だから、私はそれらを一切使うことができないんだけれど、でも、モー娘専用のお手洗いってどんななのか、気になるじゃない?だから、私はモー娘専用のお手洗いに入ったの。そしたらそこは、一面に畳が敷かれただけのだだっ広い空間で、なんていうか、ものすごく寂しくて、そして、ものすごく危険な予感に包まれている場所だった。恐怖そのものに満たされているというか、とにかく、ただじゃおかないっていう、そんな感じ。私は恐ろしくて、すぐにでも逃げ出したかったんだけど、どうにも身体が動かなくて、ただただじっとしてた。そしたら前方から大きな棒がすごい勢いで突っ込んできて、追突された私の歯はアニメみたいにぼろぼろ抜け落ちてしまったの。そしてあほみたいにすっきりした私の口の中から大量のオレンジジュースが噴き出してきて、それで、みんなオレンジジュースに呑まれちゃった」
「...」
「...」
「終わり?」
「うん。終わり」
「なんだかとりとめのない話だね」
「夢だもの、当たり前じゃない」
「そうか...ところで、今の話のどの辺りで僕は登場したんだろう?」
「あら!」彼女は大袈裟な調子でリアクションをした。「ほんとね。よくよく考えてみたら、あなたはまるで夢に登場していなかったみたい」
「そうか。まあ、なんというか...僕としては一向に構わないのだけれど」
「きっと私も残酷な人間なのね」
「そうかもしれないね」
「ねえ、私たちって、すっごくお似合いだと思わない?」
「うん、そうだね」
「どのように?」
「レイトショーのナイト・オン・ザ・プラネットのように」
「ふふ、素敵」
 彼女が僕の胸から手をよけて、僕はゆっくりと上体を起こした。
 目の先で、3人組の女子高生が仲良くバドミントンをしていた。彼女たちは今この瞬間、どこの誰よりも楽しそうに見えた。きっと、彼女たち自身もそう感じているのだろう。世相の写し鏡である女子高生が休日にバドミントンをして遊ぶなんて、世界は想像以上に平和であるのかもしれない。
「スミマセン」
 声のした方を見ると、4人の外国人が僕らを見下ろしていた。どうやら写真を撮ってほしいみたいだ。彼女はオーケーと言って立ち上がった。一人で座っているわけにもいかないので、僕もよろよろと立ち上がった。
 4人の外国人は東京タワーをバックに、ポーズともいえない微妙な姿勢をとって、彼女がシャッターを切るのをじっと待っていた。彼女は少し戸惑いながらも、ハイ、チーズ!とシャッターを押した。彼らは曖昧なポーズの上に曖昧な笑顔を浮かべた。手持ち無沙汰だったので、僕は彼女の後方で彼らに向けて戯けてみせた。あまり効果はなかったが、彼らの内の女性一人が面白がってくれた。
 典型的な観光客といった4人組だった。一際背の高い男と、次に背の高い女、二人に比べると背の低い男が二人。服装の系統はばらばらだが、皆揃ってナイキのスニーカーを履いている。靴紐の結び方にも個性はない。皆揃って外国式だ。年は、僕の親より少し下くらいだろうか。おそらくはもう少し若いのだろうが、とても大人びて見えた。外国人は年齢を推測するのが極めて困難である。背の高い女と背の低い男のうちの一人が内側でくっつき、二人を挟むように残りの二人が立っていた。内側の二人は付き合っているのだろうか。そもそも彼らは何のつながりで日本に来たのだろうか。外国人のグループは関係性を推測するのも極めて困難である。彼らはきょろきょろと辺りを見回し、他人の迷惑になっていないか何度も確かめていた。その動きは、___ひょっとすると失礼な言い方になってしまうかもしれないが___とても日本的だった。
 アリガトウと言って、彼らは満足そうに去っていった。僕らは彼らのこの後の観光プランを漫ろに想像しながら、その後ろ姿を見送った。
 ふと周りを見回して、どうして彼らは僕達に声をかけたのだろうと考えた。芝公園には彼らと同じように写真を撮ってもらっている人や、写真を撮りたくて仕方がないという風にさえ見える人がたくさんいる。僕らは人から声をかけられやすい体質なのかもしれない。よっぽど暇を持て余しているように見えたのだろう。さもなくば、わざわざ公園に座り込む男女2人組に写真を撮ってもらおうなどと思わないはずだ。
 彼らに感化されたのか、彼女はポケットからスマホを取り出して、おもむろに東京タワーを撮り始めた。構図に悩みながら真剣な表情で撮影する彼女の姿を眺めていると、東京という大都会の時の流れが、限りなく緩やかであるように感じられた。
 後ろからそっと近づいて画面を覗きこむ。彼女が気づいてカメラを内に切り替え、僕と目が合って笑った。
 東京タワー。それぞれ大きさは違えども、等しく分け与えられる存在。それは常に特別で、常に赤く輝く。

 大門の居酒屋で早めの晩飯をとった。お酒に強くない僕はレモンサワーを一杯飲んだきりで、あとはポテトサラダばかりを口に運んでいた。彼女は出された料理にはあまり口をつけず、焼酎ばかり飲んでいた。長くもなく短くもない、平均的な滞在時間だった。途中で一回ずつトイレに立ち、途中で五回、氷が音を立てて崩れた。何もかもが平均的な食事だった。食事講座というものがあったら、冒頭のビデオで模範例として流されるだろう。
 お会計を済ませて外に出ると、都会の空はすっかり暗くなり、街は雑多な人間で溢れかえっていた。酔っているわけではなかったが、このまま帰りたくもなかった。僕らはしばらく大門周辺をあてもなく歩いて、導かれたように芝公園へと戻ってきた。
 夜の芝公園。地面はひんやりとしていて、少し湿っている。喧騒から離れた閑やかさが歩き疲れた身体に心地よく染み込んできた。さっききれいにしたばかりの服が、また芝だらけになった。
「私ね、時々、自分が世界で一番かわいくて、なんでも思い通りになっちゃう、最強の女の子みたいな気分になることがあるの。まさに無敵状態って感じ。まるで揚げたてのエビフライに羽が生えてあちこち飛び回ってるみたいな....ごめんね、喩えが上手にできないの、許して______。でね、その時の私は、とにかく自分という生き物に対して得意げで、目に映るすべてのものに挨拶したくなって、全然知らない人にちょっかい出しちゃったり、工事現場の前で踊り出してみたり、階段を下るにしても、自分が階段を下るっていう行為がおかしくってたまらないくらい、それはそれは愉快で、今日という1日はそっくり私のために用意されたんじゃないかっていう、笑っちゃうくらい生意気な考えも、ものすごく自然に浮かんできちゃうわけ。誰にもわからない___あなたにだってわからない___、私だけの世界。何もしてないのに、何かを成し遂げ続けているような、そんな気分。ふふ、幸せそうでしょ?でもね、イワシが大量に獲れる時期とうそみたいに獲れなくなる時期があるように、反対にものすごく惨めな気分になることがあるの。ぷかぷか浮かんでいるだけの雲が息苦しさに喘いでいるように見えたり、お弁当で除けられるパセリが自分に見えてしまったり、靴紐の綻びで世界の終わりを感じたり。何もしてないと何かをやめているような、そんな暗い気分。その時の私はすっごく月並みで、ひとつも面白いことを言えないの。少なくとも、そういう気分ということなのだけれど。だから、できるだけ人に会いたくなくなるし、外にも出たがらない。だけど、ある一定の時間が経つと、そんな気持ちもすっかり忘れて、陽気で楽しいただのかわいい女の子に戻っちゃうわけ。______でね、何が言いたいかというと___________。今の私は、ちょっぴりおしゃべりな気分だったということ!」
 彼女は、目の奥にこびりついてとれなくなる程のいたずらっぽい笑顔で僕の方を見て、それからすぐに両手で頬を抑え、すっ、と真顔になった。にやけすぎて表情筋を痛めないようにする独自の予防法らしい。僕も無意識に顔が綻びっぱなしであったことに気づいて、真似をした。それから真顔で彼女と目を合わせて、思い切り笑い合った。

 東京タワーの灯が、赤い夜に溶けていく。

 空を見上げた。東京の夜空は思っていたよりも澄んでいて、星がきれいに見えた。普段足元ばかり見て歩いているから、東京の空は星が見えないなどと勝手に決めつけていたのかもしれない。
「誰にも見つけられない星になれたらな」と彼女が呟く。僕は気の利いたことを言おうとして寝転んだまま彼女の方を見たが、彼女が遠くを見つめたまま動かないので、何も言わずに夜空へと目を戻した。
「ねえ...なんでもない」

 赤色。愛と情熱の色。東京タワー。11月、夜の耳鳴り。あるいは云々。僕は身を寄せて彼女の手を握る。もしも今ここに楽器があったら、ひとりでに素敵なメロディが流れ出すだろうな。季節が音楽を奏でる。暖かくて、特別な色。あるいは云々。
_______耳鳴りが止まらない。
「ねえ、私のこと好き?」






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