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好きな人に美味しいものを食べさせてあげたいな

亡くなった人を人生で初めて見たのは、多分2歳か3歳のときだったと思う。

随分と幼いときだったので断片的なことしか覚えていないが、曽祖母の葬式だった。
時間がゆっくり流れていたような、普段は起きていない夜の時間帯だった気がするので、恐らく通夜だったのだろう。
母か祖母が私を抱き抱え、棺の中で眠っている曽祖母を見せながら「ひいばあちゃん、ねんねしてるからね」と言った。
「ねんね」とはおやすみしている、ということである。
死の概念が無かった私は、曽祖母が寝ているという言葉を信じ、静かにしていた。曽祖母の顔を見ても、私は寝ていると信じていた。死への概念が無いからである。

その後私は人生で4回の葬式を経験した。
いつから死という概念を知ったか分からないが、2回目の葬式では確実に亡くなった人という意識があった。

重たい話になってしまうので割愛するが、様々な形で死に寄り添った。そうやって経験をしたので、死は遠いけれど、意識は割とすぐ近い存在にあった気がする。

彼氏が先日、人生で初めての葬式に行った。
人生で初めて、ということは、今まで亡くなった人を見たことが無かったということである。
これは結構衝撃だった。
この歳になって初めて葬式に行く人がいるのか、と。
それは裏を返せば近親者が長生きしているという良い話でもあるのだが。

大人になって初めて葬式に行く、ということは今までに無かった死生観が生まれてしまうのでは無いかと思い、ドキドキした。
ドキドキというのは勿論ときめきの意味では無いが、不謹慎ながら『自分には二度とすることのない経験(大人になって初めて葬式に行くこと)』をする人を見るときめきは混ざっていた。

葬式に行く。しかし今回は前々から分かっていたこともあり、彼氏の気持ち的にはそこまで沈んではいなかった。
寧ろ関係性的にバタバタと動く立場だったようで、忙しいが勝っていたようでもあった。

だから、帰ってきた彼氏は思いの外元気そうでホッとした。
私が「焼香するときってやり方分からないから前の人の真似するよね」と今までは絶対に共感されなかったであろうあるあるを出してみたが、「別に誰も見てないからそんなに気にしなくても大丈夫だよ」と一蹴された。
誰も見てない、は嘘である。少なくても私はめちゃくちゃ見ている。
でもいつも通りの彼氏だった。

彼氏は「亡くなった人は、確かに生きていないという感じがした」と言った。
「あと、小さくなっていた」と。
それよりも、その人が作ってくれた料理を食べたくなったと言っていた。
昔からよくご飯を作って持って来てくれていたらしい。
それから彼氏は、よく食べていた食べ物の話をしてくれた。

葬式に行くって、こういう感じだったなと思い出した。
今はご時世的に自粛されているらしいけれど、精進料理を食べながら亡くなった人のことを思い出す時間があった。

彼氏も誰から教わったわけでは無いけれど、
亡くなった人を見ていたのではなくて、勿論目ではその棺を見ているのだけれど、心の奥ではその人が生きていた頃を見ていたのかな、と思った。
人々はそういう形で故人を弔うのだ。

死生観が変わってしまうのでは、なんて考えていたが、案外人は死というものを、感じる前から知っているのかもしれない。

そうえいば私も、随分と幼少期に亡くなった曽祖母を思い出す時、タンスの中に入っていたお菓子を思い出す。
タンスの2段目か3段目にお菓子が沢山入っていて、その中の「ビスコ」や「おっとっと」をよく貰ったものだった。
あんなに小さかったのに、貰って嬉しかった思い出は覚えている。
匂いで人を思い出すことがあるとは思うが、味覚も案外人と深いつながりを持っているのかもしれない。
胃袋で恋心を掴んだりするし。

そう思うと、私も大切な人には美味しいものをたくさん食べさせてあげないな、と思った次第である。

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