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【サンプリング小説】靴底も削れているし休みます決意の朝に猫と目が合う

靴底も削れているし休みます決意の朝に猫と目が合う
引用:twitter  @S1nju_(真珠。 様)



嘘を知らない鳥たちは、今日も朝が来た喜びを表現する為にただ歌う。
昨日まで降り続けていた雨もようやく止んで、清々しい程の青空だった。
『素敵な朝』という言葉が似合う午前6時。
彩芽はベッドの上で深い溜息をついていた。

最悪な気分である。
朝起きた瞬間からそう思ったのだから、今日は最悪な日に違いなかった。

丁度良い温度を保ち続ける布団から出ることも億劫だし、
朝ごはんには嫌いな納豆。
テレビの星座占いは下から2番目で、それだけでも気を病む条件としては立派に整っていた。
11位とは一番タチが悪くて、順位が悪い癖にラッキーアイテムすら教えて貰えないのだ。
渋々制服に着替えている間も、ふと思い出しては溜息が出る。
昨日の、あの出来事。
それは朝起きた瞬間に鮮度を保って気分を害した、彩芽の人生にとって多大なる影響を与える出来事だった。

自室から出て1階に降りる間も、熱が出ていないか額に手を当てて確認してみるが、やはり身体にはなんら問題が無い。
リビングを通ると、弁当を作り終えた母が一服がてら、座ってテレビを見ているところだった。

「ねえこの俳優って、彩芽が好きな人じゃないの?」

指差す先には人気アイドルグループのメンバー神田隆二の結婚報道が取り上げられていた。

最悪だ。

返事も出来ぬままバタバタと玄関へ向かうと、母が呑気に
「いってらっしゃい」と言うのが、微かに耳へ届いた。

高校2年生の秋。
彩芽は昨日、吹奏楽部の部長になりそびれたのである。

彩芽は中学からトランペット一筋で担当し続けていた。
周りより音色も綺麗に出せるし、その上努力も人一倍怠らなかったので
自然と周りからは「次の部長は彩芽ちゃんだね!」と言われていた。
その言葉を、すっかり間に受けてしまったのだ。
実際彩芽は周りの子に教えたり、イベントも積極的に前へ出て活動するようになっていた。
誰よりも早く部活に行っては予習も怠らなかった。
部長は、他の部員の鑑になるべきなのだ。
いよいよ3年生が引退して役職者を決めることになった時、
周りが口を揃えて推薦したのは、愛想が良い人気者の櫻子だった。

彩芽は悔しいと同時に、恥ずかしかった。
自分1人だけ張り切っていたことは、随分前から他の部員にバレていたに違い無かった。

セーラー服に、薄手のカーディガンを羽織って、足元まで校則をきっちり守ったローファー。
昨日まで降り続いた雨は、アスファルトも腹一杯で全ては吸いきれなかったようだ。水溜りとなって、あちらこちらに残ったままである。
そこに反射している綺麗な光も彩芽には腹立たしく、
わざとらしく踏みつけながら、学校へ向かった。

駅まで徒歩7分。電車で10分。それからまた学校まで徒歩10分。
部活動の朝練は毎日のようにあるので遅くても6時半には家を出る。
彩芽が起きる頃、街を闊歩しているのは犬を連れたお年寄りばかりで、
社会すらまだ活動を始めていない時間帯である。

周りに人がいないと、つい気が緩んでしまう。
無意識に、課題曲の鼻歌と共に指が動く。
今年の課題曲は『トイズ・パレード』。
少し愉快目な導入部分がお気に入りで、練習後は特に、気付くと脳内を泳いでいる。
それから彩芽はハッとした表情で眉を潜めて、動かしていた指に力を込めて、水溜りを踏み続けた。
彩芽が踏んだ水溜りからは、ピシャッと小さな音が鳴る。
不規則に水が跳ねる音。
その笑い声のような高めの音に、益々腹が立ち次の水溜りを踏みつける。

「冷たっ」

駅まで残り徒歩2分の距離である。
彩芽は足元を見ると、肩まで落として深い溜息をついた。
靴の底が削れていたせいで、隙間から水が浸食したのだ。

最悪だ。

これっきり、まるでブレーカーが落ちたように、もう一度歩き出す元気は生まれなかった。
塀の上で呑気に日向ぼっこをしていたジャージー柄の猫と目が合う。
牛みたいに白黒はっきりとした、大きな身体の野良猫だ。
猫はこちらに向かってニヤリと笑った。

「猫に何が分かるのよ」

『最悪』が積もりに積もって、幾ら真面目な彩芽にも、最早気力は残っていなかった。
罪の無い猫に八つ当たりをした罪悪感も合い重なって、彩芽はそのまま踵を返した。
ジャージー柄の猫が見つめ続けたのは、彩芽の後ろ姿であった。

ジャージーは大きな欠伸を1つして、彩芽の後ろ姿を追いかけた。

猫は毎日忙しいのである。
世の中に気になるものが沢山あるのに、どれだけ抗おうと眠いのだ。
ジャージーもまた、例外なく探究心を持った少年だった。
彩芽がトボトボと歩いていくのに、
ジャージーは塀を越え、また道路に飛び降り
颯爽と追いかけ続けた。

彩芽が一度自宅の前で立ち止まったのを、ジャージーは見逃さなかった。
一度は観音開きになった小さな門を開きかけたものの、
数秒動きが止まると、ゆっくりと手を引いて後退りをする。

ジャージーは賢いので、制服のまま学校をサボると大人に怒られることも気が付いていた。
小さく鳴いてみたが、彩芽の耳には届かない。

彩芽がジャージーの忠告に気づかずトボトボと歩き始めた頃、
ジャージーはまた後をつけるように歩き始めた。
彩芽は決して頭が悪い訳ではない。
ただ真面目で、こんな悪さをしたことが無かったので
広い視野で考える余裕が無かったのである。

時々大きな家から焼き魚の匂いがして、
ジャージーはうっかり引き寄せられるところだった。

彩芽の家から東側に歩くと最寄りの竜田駅。
反対側を真っ直ぐ歩くと、地元の小学校や郵便局がある。
その辺りで学生がよく遊んでいるのが、街でも一番大きな公園
『清田川公園』であった。
彩芽がそこに向かっていることは、7分ほど歩くと察しがついた。

セイタガワ、と言うのは更に奥まった場所を流れる川の名前に因んでいるのだが、子供たちは鯨の形をした滑り台があることから『鯨公園』と呼ぶ。
鯨公園には学校が1つ入るくらいの大きな池があって、
その池の周りを自転車で漕ぐ者や、池をボートで漕ぐ者もいる。

ジャージーがこの公園を訪れるのは、生まれて2回目だった。

一度目は今よりもっと小さい頃、
母に連れられて兄弟猫と共にやって来た。
市の『清田川祭り』が行われた翌日で、残った食べ物を目当てに訪れたのである。
猫にとって祭りは翌日が本番なのだ。
あの日母猫は、子猫を茂みに隠して食べ物を取りに行ったきり、
戻って来なかった。
世の中の人間たちは、『ホゴ』という活動をしているらしく、
母も檻に入れられたのでは無いかと噂になった。
それは人間にとっては正義で、社会貢献を好む素直な人間が熱心に取り組んでいるのだ。
猫には幾多とそういう出来事があり、母猫がどこかへ行ってしまったことは兄弟と一緒に受け入れるしか無かったのだが、
ジャージーはそれきり、なんとなく公園に立ち寄っていなかったのである。

彩芽は公園に足を踏み入れたものの、特に目的は無いようで
のんびりと歩き始めた。
まだ朝早いこの時間帯、人々もまばらで
臆病な彼女にとっては恰好の隠れ家なようである。

彼女が歩き始めた辺りが、例の池がある入り口だった。
少なくとも池を半周しなければ、遊具のある広場には辿り着けない。
時々ジョギングや散歩をしている人とすれ違うが、
彩芽がサボっているとは思わないようで見向きもしない。

池には柵があって、その外側には疎らに椅子が設置されている。
彩芽は少し歩いた後、目についた椅子に部活用のハンドタオルを敷いて腰をかけた。

時刻はまだ7時10分。
季節柄陽もまだ本格的に照らしていないので、
雲の隙間から薄く彩芽を照らしている程度だった。
日光浴とはよく言ったもので、何となくお日様の香りが漂うようでもあった。

ジャージーは少し離れた茂みで横になり、大きな欠伸をした。

彩芽もまた、トランペットを傍に置いて猫のように大きな伸びをした。
ジャージーが見かける彼女はいつも、トランペットを背負っている。
重たい筈なのに、まるで苦痛に感じず軽快に歩いている彼女を知っている彼は、
「トランペットが好きならそれで良いじゃない」と伝えるべく、
大きな口を開いてにゃーと鳴いた。
やはり、彼女にその声は聞こえない。

彩芽の視点はぼんやりと前を見つめているが、
指は相変わらずトランペットの演奏をしていた。
高校入学時、両親が買ってくれたトランペット。
15歳だった彼女にはその金額があまりにも高価で、
一番安いものを指差して選んだものの、
「大事に使ってくれるなら」と、その場で父が桁の変わるトランペットを買ってくれたのだった。
部長になれば、あの頃の大きな買い物も報われたのかもしれない。
父親だって、部長になれなかったことを知れば、同じようにため息をついて残念がるだろう。

彩芽は暫く口をへの字に曲げて考え事をしていたが、
時間を持て余したのかトランペットを取り出して、課題曲を弾き始めた。
鯨公園は広く、大きな音も住宅街まで届きにくいので、楽器の練習には格好の場として使われていた。
1人で吹いていても、頭の中では合奏が始まる。
櫻子がいつも間違えるパートだって、彩芽は把握していた。
胸がチクチク痛むが、気にせず何度も練習をする。

30分程経った頃だろうか。遠くから、トランペットと同じくらい大きな荷物を担いだ女性が彩芽の方へ近寄って来た。
負い目のある彩芽は演奏を止めて、同時に潜めるように呼吸が静かになった。
しかし女性の目線は彩芽では無かった。自分が目的の対象では無いと分かると、横目でその女性の行動を見守る。

絵描きだ。
カルトンを出して、慣れた手つきで準備をしていく。
風景画を描いている途中であり、この場所に腰を据える必要があることも
キャンバスに描かれた絵を見ると容易に想像がついた。
筆には小さなシールに『藤』と書かれているが、
2文字目以降が擦れていて名前かどうかは分からない。

黒のワンピースに厚手の黄色いカーディガンを羽織る女性は、
20代後半といったところである。
金に近い茶髪がまた、大人っぽくて格好良かった。
赤い口紅がよく似合いそうなクールな印象だったが、
近所なのか絵を描く為だけにやってきたのか、
化粧はしていないようなナチュラルな雰囲気だった。

「ねえ君、学校サボってるの?」

いつの間にか眺めるように見つめていた女性がふとこちらを振り返ったものだから、彩芽は見て取れるように動揺した。
大人にバレてしまってはいけない。
本能が彩芽に語りかける。

「その制服清美高でしょ?今からだと間に合わないよね?」

彩芽の全身から冷や汗が出る。
その一連の出来事に固唾を飲んで見守っていたジャージーが起き上がった頃、
慌ててトランペットを片付ける彩芽に向かって、
女性は吹き出すように笑いかけた。

「制服でサボるなんて勇気あるじゃん。
君、サボり慣れて無いんでしょう?無断欠席は学校が心配するんじゃない?」

女性はスマホを取り出すと清美高のホームページを調べ、
丁寧に連絡先を開いて、差し出した。

女性がスマホを貸してくれていることに気が付いたのは、
数秒経ってからだった。

「良いんですか」

女性は揺らぎない意思で彩芽を見つめている。
彩芽はスマホを受け取ると、学校に電話をかけて「お腹が痛い」ことを伝えた。
普段嘘をついたりしない彩芽の言葉に、
先生は心配の声を掛けて呆気無く電話を切った。

「ありがとうございます」

女性はスマホを受け取ると、ワンピースのポケットに入れて代わりに筆をとる。
大まかな風景は既に浮かび上がっていた。
既に乾ききったその絵に、緻密な箇所を重ねて塗っていくようである。
遠くからその所作を眺めていると、女性はチラッと彼女を見て小さな手招きをした。

「興味あるなら見てみなよ」

ゆっくりと近付き眺めた絵には、壮大な池が描かれていた。
実際よりも大きく見える、その理由が暫く分からなかったが、
ようやく理解した。人間の大きさが異常に小さかった。
周りを散歩しているような老人も、池に浮かぶボートも何故だかとても小さい。

「どう思う?」

彼女が疑問を投げかけると、

「大きな池ですね」

と、彩芽は率直な感想を述べた。

「この池にね、大きなネズミを泳がせようと思っているの」

ネズミという言葉に興味をそそられたジャージーは、
少し歩み寄り絵を眺めに行った。
猫は残念ながら、人間程の色彩感覚を持ち合わせていない。
それでも絵の中には沢山の色が使われていて、
彼女の描く世界もまた、許容範囲が広いことは伺えた。

「そんなの、良いんですか?」

「君だって今、嘘ついたばかりじゃない」

女性が彩芽に放った嫌味も、何故だか悪い気分にはならなかった。
いつも素直に生きてきた彩芽にとって、
女性が作り上げる嘘で固められた世界が異常に魅力的に思えたのである。
黒いワンピースの女性は鞄から画集を取り出すと、彩芽に手渡した。
藤枝 沙耶。
先程の筆に貼ってあったヒントから、彼女の画集であることが想像出来た。

画集を開くと、彼女の絵には嘘が沢山紛れ込んでいた。
田んぼからフランスパンが生えている絵。
街中でトランプを背負って行き交う人々。
UFOが東京タワーを吸い込んでいる絵もあった。
どれも風景は繊細で、それでいてフィクションらしい不思議な世界観。
画集を眺めている彩芽に向かって、沙耶は言葉を投げかけた。

「昔から日常とか現実とか、窮屈でつまらなくてさ、私は今嘘の世界を作ることが生きがいなの。だから君だって、たまには嘘をついても良いんじゃない?」

画集を見つめていた彩芽は、沙耶の言葉に顔を上げた。

「私は嘘のお陰で生きる楽しさを手に入れた。
君は嘘のお陰で私に会えた。
そう思って貰えれば、私も嘘の手伝いをした甲斐があるのだけれど」

彩芽は大きく、何度も首を縦に振る。
今朝現実に苦しめられていた事も、嘘によって喜びを得たことも
全部沙耶に伝えたい本音だったのだ。

「嘘って、ひっくり返して考えてみれば
自分の心に一番素直という考えも出来るよね」

ジャージーは大きな欠伸をした。
猫には嘘をつくという習慣が無いのである。
しかし彩芽が大きく頷いているその姿に、ジャージーはいささか安心をしたようだった。

「あの、藤枝さん。また会えますか?」

彩芽が話しかけながら画集を返そうとすると、沙耶はその手を突き返した。

「良かったらあげるよ。気に入ってくれたみたいだから」

彩芽はまた目を輝かせてお礼を言いながら、カバンに画集を入れた。

「どこか行くの?」

「やっぱり私、学校に行きます」

いつものようにトランペットを担ぐ。

「私、ただみんなと一緒にトランペットが吹きたいんです」

沙耶は小さく微笑みながら頷いた。

「現実って色々あるけどさ、自分が一番素直に考えたことを大事にしなよ」

彩芽が大きく身体を曲げて挨拶すると、
トランペットは一緒にお辞儀をした。
彩芽が3度お辞儀をして公園を去る姿を、
ジャージーは見送っていた。
眠たくなったのだ。
ジャージーは眠りにつく体勢に入り、
沙耶はまた絵を描く体勢に戻った。


今朝の憂いは何だったのだろう。
彩芽の心が穏やかなのは、その軽快な歩みから見て取れた。
部長になりたかったなんて、本当は嘘。
あの瞬間本当は、背負わなくて良い責任に、
ただ演奏するだけで良い気楽さに、心のどこかでホッとしていたでは無いか。
彼女はただ、もうずっと前からトランペットが吹きたいだけなのだ。
それを認められなかったのは、自分の嘘を認められなかったから。
その気持ちが、ひっくり返せば本当なのだ。

指の動きは自然と楽譜を辿ってしまう。
課題曲の鼻歌が混ざる。
彼女の心には今、嘘など1つも無いのである。

ただ朝がきた喜びを歌いたいだけの鳥たちが、
いつものようにチュンと鳴いた。


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