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カミキリ

 

神切神社を知っているだろうか。神でさえ縁を切りたくなるという有名な縁切り神社のことである。なんとも物騒な名前ではあるが、その最寄りにある『神切駅』がここまで大きくなったのは、他でも無くこの神社のお陰だ。街のシンボルである神切神社を、私は一日に二度見ることになる。

 会社の行き帰り、私は神切駅で地下鉄から他の路線へ乗り換える。改札を一度出なければ行けない為出社の際には億劫だが、帰り道はショッピングモールに行って買い物をしたり出来るのは有り難い。駅の出口は幾つもあるが、私が使う出口は大抵一番か八番だ。
 今日は真っ直ぐ家へ帰るつもりだった。地上の路線を出て一度だけ通る信号で立ち止まっていると、ふと視界の中の違和感に気が付いた。

「なんだ?」

信号を渡った先の端に、大きな穴のような、入口のようなものが出来ている。駅への出口かと思ったが、私の記憶にはこんな場所に出口は存在しなかった。信号が青に変わった頃、赤い首輪をした白猫がその中に入っていくのが見えた。

 私は信号を渡ると、その入口を覗いた。否、厳密には、見かけることしか出来なかった。とても暗く、一歩先が本当に存在するのか分からない程だった。猫は戻って来ない。何かの空間は存在するようだ。工事でも始まったのだろうか。
 諦めて通り過ぎようと思った先、今度は女性が暗闇に入って行くのが見えた。一瞬のことではあったが、真っ白のトートバッグに人気アーティストのバッジを付けていることだけは目視できた。私は益々興味が湧いた。怪しまれぬよう少し離れた先で様子を伺ったが、女性は疎か、他の誰かも出てくるようには見えなかった。何もない暗闇の入口だが、何故かとても興味をそそられた。私は出来るだけ長く、この場所に留まってみることにした。

 初めてその暗闇から何者かが出てきたのは、三〇分ほど経った頃である。ぼんやりとスマホゲームに興じていたので、男が出てきたと認識するのに一瞬の時間が掛かった。男はまた、トートバッグに例のアーティストのバッジを付けていた。

 追いかける以外の選択肢は無かった。その為に長い時間立ち尽くしていたのである。声を掛けると男性は相当驚いた顔をして振り返った。冷や汗とも取れるような汗をかいている。

「すみません、あの暗闇は一体なんですか?」

男は一瞬目を丸くしていたが、それから安堵の溜め息をついた。

「あの穴が何か、貴方は知らないのですね。良かった」

最初に入って行った女性と同じバッジを付けていたのは気になったが、何やら愉快な出来事が起きているような空気では無い。彼の溜め息から察するに、むしろ違法な出来事が巻き起こっているのだろうか。

「私から話せることは何もありませんが、生きるのに絶望したり、自分に自信がない人なんかも入ってみれば良いと思いますけど…」

それから男は悪戯っぽく口にした。

「例えば貴方、自分が何者か説明出来ますか」

ひんやりとした空気を感じた。名前はある。職業もある。しかし今の私は、世界に何万といる、シンプルなスーツを着飾った営業マンである。何者かと聞かれ答えられるのは、もっと自信のある仕事に就いていたり、あとは唯一無二の肩書きがある者くらいでは無いだろうか。私は答えに詰まったまま、彼の顔を見ることしか出来なかった。

「とにかく、今の人生に満足していない人にはオススメしますよ。貴方が興味を持っているのも、あの暗闇に呼ばれてるのかも」

 男は軽く挨拶をして、軽快に歩み始めた。彼は何がそんなに楽しいのか。何よりも好奇心が抑えられなかった。死ぬことは無さそうだし、何かいけないことが繰り広げられているのならば、巻き込まれる前に逃げれば良い。私は暫く暗闇を見つめていたが、息を止め思い切って足を踏み入れた。私が暗闇に吸い込まれても、街の動きはひとつも変わらなかった。


 また一人例の暗闇から姿を現した。彼女はまるで先程まで誰かに飼われていたような、真っ赤な首輪を巻いていた。彼女は大きな欠伸をすると、自らの手で首輪を取って、まるで生まれ変わったかのように街の中へと駆け出した。

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