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彷徨うおっさん22 嫌悪されるオタク(6/6) 嫌なオタクをやめる そして良いオタクとは

 前回は、嫌なオタクの精神年齢は低いのではないかという考察をした。また、嫌なオタクはモラトリアムで卒業すべきで、オタクのペルソナをいつまでも使うのは不健全である旨も述べてきた。

 最終回の今回は、まとめとして、嫌なオタクの性質とその発源の過程について述べつつ、本当の勇気を持って嫌なオタクを辞めること、そして良いオタクでいようということを述べたい。

<嫌なオタクで居続けることは生きづらい、そこに気が付いて、勇気をもって何処かで早めに抜けたらいい>


 おっさんの主観ではあるが、嫌なオタクという存在は、まとめるとこのように変化していくのではないだろうか。

① 個人が、辛い現実の存在や、社会性の未熟さによる不適合から、一人でできる趣味に走る。

② 一人でできる趣味と拘りは、周囲になかなか理解されないこともしばしばだが、無理に認めて欲しくて暴走すると、先鋭化し、入れ込み度合いでマウントを取りたがる。

③ 尖っても、どこまで行っても自分だけの拘りで終わる可能性が高く、特にコンテンツを単に消費する行動でしか示せないケースは更に理解が得られにくい。そしてなかなか想いは満たされない(非生産性とそれ故の地位獲得の困難さ)。

④ 満たされないままでも、入れ込み具合と理屈のゴリ押しで、マウンティングを果たす事はできてしまうので、そのある種の成功体験によって自己特別感、オタクとしての誇りといったものを抱き始める。

⑤ だがその誇りも認めてもらえないどころか嫌われ始める。一方で誇りだけが自我を増幅させ、自己正当化のためにコンテンツに精神的にフリーライドし、同じオタクからも阻害されていく。

⑥ いよいよ周囲と摩擦を生じて孤立化していくが、今度はそれを「オタクに対する差別」と都合よく捉えるようになる。オタク趣味のカミングアウトが偉いなどと言った世間ズレした思考を持つに至り、挙句は嫌われてもオタクであることにしがみついて何とか自分を保とうとする。

 嫌なオタクは自身が認められない現実に対して、成長の過程で、より広範囲の人の価値観を受け入れるなど、自分が変わることによって対処できなかった。そして、自分の趣味に対する、可視化可能な熱量による証明(旺盛なコンテンツ消費)と、理屈(拘りの表明や差別論)などによって、白黒着ける方法ばかり選び、他者と共存ではなく対立してきた人達であるとおっさんは考える。

 結果、視野や選択肢が狭まり、悲惨な末路につがっている。

 上澄みの、そのまた上澄みをすくって、純度を上げ続ける生き方でもある。純度が増す程、維持が難しくなる。結果、ナイーブで幼い思考回路になる。そして最後は醜いコンテンツの奴隷と化す。

 分かりやすく言えば、一つのコンテンツの純度を、手前勝手に競って極め続けるとそれに縛られると言うことだ。どこかで拘りを捨てて降りれば、一ファンとしてたくさんの人と繋がれる筈なのに、積み重ねてきた純粋さを捨てられないのが嫌なオタクではないだろうか。

 こうした性質は、自己愛性人格障害的ともいえるかもしれない。コンテンツを信奉する自分が偉大で特別と考え、それ以外の価値観を素直に受け入れることができていない。

 なるべく早く己と向き合い、何処かで折り合いを付けられれば良いのだが、オタク趣味に結び付けて、劣った自分、気持ち悪い自分、暗く乾いた自分を常に正当化し続けてきたのだ。急に変わるのは困難に思う。

 前回のモラトリアムの話をして、嫌なオタク傾向が出たら、若いうちに軌道修正を促した方が健全であるようにおっさんは思う。
 これはその趣味を必ずしもやめろというのではなく、どう思われているか、どう社会とつながるかに、若いうちにもっと関心を持てという意味である。


 少し偏見が入るが、マイナーなコンテンツばかり選択する人は孤独を好み、生来的に嫌なオタクになる要素を持った人がやや多いように思うので注意されたい。

 本当にその分野が好きならいいが、一人になれるからと依存して他者とのつながりを絶ったり、コンテンツへの入れ込み度合いで優劣を語り出すようなら危ない。

 かくもよく分析して、不幸な人間になってはいけないとおっさんは思う。

 自分ではなくとも、嫌なオタクにマウントを取られるなど、嫌な思いをさせられた場合は、反面教師として欲しい。同じ事をして対抗するのではなく、冷静に捉えて自分を見つめ直す機会にして欲しい。

 そして気がついた時点で、勇気を持って抜けて欲しい。カミングアウトと違って、自分の弱さと向き合う本当の勇気が必要だが。

<最後に、問題は嫌なオタクだけである、良いオタクになれれば良い>


 オタク趣味の多くは一人で楽しめるので、人付き合いが上手くない人の駆け込み寺的趣味でもある。
 おっさんも人付き合いは苦手だから、本当に好きな趣味をバッサリ捨てることはしない。若かりし日にあえて捨ててみた経験もあるが、無理があったし、結局戻ってアプローチを変えることになった。
 ただ「嫌なオタク」を避けて、その趣味と上手に付き合う考えだけは、全ての人に必須であると考えている。

 一つの分野に造詣が深いこと、愛着ではなく愛情が深いこと自体は強みにもなる。誰も興味を示さないことでも、自分が好きだったら構わない(無論、犯罪や迷惑行為はNGではあるが)。

 何度も言うが、大事なのは趣味の内容より、人や社会とのつながりを大事にする価値観や、広い視野の確保ではないだろうか。
 
 嫌なオタクはそこが足りないから、オタク呼ばわりされると自虐的になったり身構えたりする。誇りなどと言いつつも、実は自分を好きになれていない証拠だ。

 健全な人間的成長をしていれば、人は等身大の自分自身を愛せる。コンテンツも自分も愛し、依存もない。良いオタクとはそうした人ではないだろうか。

 

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