窓際のおっさん7 人材育成難と人材不足(前編:形骸化する研修)

 会社にいると色々ある。どうにもならない事ばかりで、禄を食むためだけにひたすら受け流して暮らしている。時には反撃してみたり、動き回って相手を撃ち落とすこともあるけれど、会社全体としては何らプラスがない。それでも一筆積み上げれば、誰かの一遇は照らせるかもしれない。そんな想いで今日も筆を取る。

 人手不足の話はどこに行ってもあるが、ここ何年もの間解消の兆しすら見えない。賃金が安いなどの経済的側面、若い世代と意思決定する上の世代の考え方の違いといった社会的側面もあるが、世の中のせい、若い人のせいばかりするのではなく、上の世代(おっさん含む)があまり機能していない側面も、きちんと考えないといけないと思う。
 
 また、人手不足とはほぼイコール人材不足ではないだろうか。雑用をする兵隊はアルバイトで良いにしても、きちんとした責任ある立場や、専門性を要する仕事に就ける人が少ないという問題があると思う。

 今回は、そんな人材育成の難しさについて、おっさんの経験を交えてお話をする

<意味のある、あるいは質の高い研修が少ない>


 おっさんが職場で経験してきた研修の典型的な面を挙げる。

ただスライドを眺めて終わる。
②スライドもほぼテキストだけで、画像も図表もモデルもない。
③一応事例はある程度あるが、最後にまとめて掲載されていて割愛が多い。

こうなる理由としては

①動機が曖昧で、単に法律やルールの改正に伴う周知の意味しかないから。
単に知識の習得であって、意識高揚または技術技能の習得ではないから。
③理屈や形式を大事にしすぎて、実体験を伝える時間を取らないから。

 また、研修後にアンケートや小テストをやって、受講者の習得度合いを測ることをやるが、これが研修主催側の自己満足を加速させている。
 大概10問の〇×テストの提出や、「今回の研修は業務で役に立ちましたか?(はい・いいえ)」などといったアンケートで実施で、マルバツは資料を参考して全問正解でその場限り、アンケートは詳述を嫌ってあまり悪く書く人がいないので問題点を拾えない。

 研修主催側が、研修の数だけ揃えて成果を誇ろうとするのも困りものである。手間や費用が掛かるものではあるが、研修は数を絞って意味のあるものだけを丁寧に作ったほうがいい。
 読めば済むことでは、事務処理マニュアルやシステムの更新で対応し、書類で正誤表などを渡せば良い。より根拠を周知学習させたいのであれば、システム上に、注釈やポップアップが出てくるようにすればいい。そうすれば抜け漏れの心配もなく、対応の均一化も根拠の説明もできる。

 ところがこの国では、未だにそんなつまらないことで研修を開き、その研修内容にかかる事務処理は人海戦術で実施している。しかも少しでも抜け漏れがあると、
「一回一回の研修の機会を大事にせよ」などと上司よりお叱りを受ける仕組み
になっている。ますます意欲がなくなり、研修や人材育成部門、果ては組織そのものに不信感がつのる。この悪循環である。

 繰り返すが、書面で済む連絡事項は書面で配布し、システム面の自動化を行えば良い。研修はもっと体験として染みつくものに絞り、本当の意味での経験値を積ませなければならない。
 今のままでは無駄や不信感が、やるべき教育活動の質や量を削減し、人材育成を困難にしてしまっている。

<上の人が了承する教育はずれている>


 結局こういう研修ばかりになってしまうのは、最終的に研修内容にOKを出す意思決定者の問題が大きいように思う。教育訓練には(動機付けや効用の評価、意欲の向上といった)本来のセオリーがあるのだが、そこを知らない人が長を名乗っているように思う。
 
また、多少知っていても前例や空気感、失敗したくないという身勝手さからおざなりにされており、一方でスライドを使った低級研修資料ばかりが毎年量産されているように思う。そもそも研修内容のよりも、研修開催したか、参加したかにしか興味がないのではなかろうか。

 例えばある上司の話で、研修から戻ったおっさんにとんでもない指示を出したことがある。

上司「その研修資料、すぐに回覧してよ」

おっさん「2,3日待ってもらっても良いですかね? まとめたり整理したりしないといけないので」

上司「そんなのは後で良いだろう、早くみんなに理解してもらいたいからね。」

おっさん「はい、その理解のためにまとめるんですよ。まだ色々覚えているうちにまとめたり見返したりすれば知識も定着しますし。それに見てくださいよ。こんな殴り書きのメモだらけでは、回覧したって見づらいですよね」

上司「だから~、覚えているうちに早くみんなに伝えたら良いじゃない。それにメモが書いてある方がちゃんとやってる感が伝わるじゃない。」

 信じられないがこういう上司も案外いる。おっさんは無視して資料のまとめに入ったのだが、あまりに執拗に「あれどうなった?早く回覧して」と来るので断りきれず、結局中途半端になってしまった(おっさんもうんざりしたとはいえ、例えば「僕無能なんで、仕事が遅くてすんませんねえ」などとおちゃらけたりして貫くべきであったと反省している)。

 この男は極端で、自分の意見を通したいだけの問題者という側面もあるのだが、結局は形式、やってる感を大事にしてしまっているのである。それなりの研修だったのだが、こういう意思決定者が案外多くて多くを台無しにしているのだ。

 研修の開催側の意思決定者も同じ価値観であるとしたら、昨今の研修の質の悪さもうなづける。ちゃんと部下や構成員のスキル向上の意思があるのだろうか。
 
 良く知った形で開催して安心。俺は良い仕事をしたと自己満足する。一方でうまく行かなければ「君は研修を大事にしていない。」「言われたとおりに周知展開しない部下が悪い。」とくる。こういう世界では人が育つはずもない。

<上の世代は無意識に研修を教育放棄の免罪符に使ってないだろうか?>


①部下は研修を受けたのだから、了解しているはず、できるようになっている筈。②俺はたくさん研修を作ったのだから、きちんと仕事をしている。
今はどこに行ってもこういう感じになっている。

 「一回一回の研修の機会を大事にせよ」という理屈も言葉上は間違いではないが、現状の研修内容でその言葉を多用すると結局、内容を棚に上げて「研修を生かせていない部下の方が悪い」という理不尽に行き着く。部下は終いには「責任取るの面倒だから研修に行かなくなる」のではないだろうか。
 質の悪い研修でも、受けたことを理由に主担当に充てるとその人は貧乏くじを引く事になる。「君研修受けてきたんだよね?」と詰め寄る上司が案外いるが、それは丸投げと同じ発想である。

 上司は部下が参加した研修資料を見て「なんだこのスライドは、テキストばっかで酷いもんだねえ?理解できた?こんなのたった1日の研修じゃあ無理だよねえ。。。」などと正当な判断をするべきだ。おっさんはこのように、まず理解を示し、そしてその上で主担当にお願いベースで任命している。

 どうでもいい研修を作りたがる人も困りものである。そんな研修の開催を指示されるのはたまらない。例えば、市内水道本管データベースの、地点水圧予想などと言う、不正確すぎて誰も使っていない機能の使い方を説明する研修を開けと言われてうんざりした経験がある。

 その道の人なら分かると思うが、竣工図ベースの構造モデルだけで地点水圧を予想しても、実地は大きく異なることが多く、参考にもならない。
 無論理論上はシミュレーション可能だが、配管の年数による状況の違い、使用水量のばらつき、送水施設の運転状況、それらを裏付ける膨大な量のリアルタイム通信の観測点を要する。
 当然これら全てのデータは集まり切らないし、集まったとしてもシミュレーションすると巨大なコンピュータが必要になる。そんなのスパコンで超高精度の天気予報をするような話だ。とても地方の水道事業者に収まるレベルではない。
 その上司も30年も水道やってて知らないはずはないのだが。。。

おっさん「誰も使ってませんよこれ、出てくる数値もいい加減だし、当初は設計に使うつもりで作ったらしいですけど、あまりにもあてにならないんで10年間使われた試しがないんですよ。今更研修やっても人集まらないし、意味ないですよ。」

上司「だから〜、使える人増やせば活かせるでしょ?そのための研修でしょ?」

おっさん「10年使ってないんですってば。何人も色々検討して結局死に機能だよねっていう結論で終わっているんです。どうしても活かすならばシステム改修でも依頼したらどうですか?膨大な資金と時間がかかりますけどね。」

上司「死に機能にしないためにやるんじゃない。いいからやりなさいよ。業務命令だ。」

  結局話にならなかった。やむなく準備して開催を告知したが、結局人が集まらなかった。そして中間管理職のご指示で、無理にお優しい3人にきてもらって研修の体をなんとか維持し、研修した。
 
研修自体もマニュアルの読み合わせをするしかなく、最後に「結局あまり使えないんですよね。ともあれ、もし良い使い方があったら教えてください。」と言って締めたのを覚えている。

 これは極端な例ではあったが、単に研修を開けば仕事、とならないのは言うものではない。意味のある研修でなければ皆に迷惑がかかるのだ。

 ちなみに本件、研修終了後に上司に「受講者アンケートを取れ」と言われたので流石にうんざりきて仕事を投げたが。。。それはまた機会があれば話をしたい。

 次回に続く


 

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