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短編(後)『この世界に、神さまがいなくても』

「ねえ、レイ」
 誰よりも透き通った声で名前を呼ばれた僕は、ゆっくりと後ろを振り返る。僕の視線の先に佇む少女は、いつも哀しそうに笑い、辛そうに話をする。まるで彼女は、自分が紡ぎ出す言葉は全部間違っていると、確信しながら生きているみたいだ。
「この世界に、神さまはいると思う?」
 静かだけれど、真っ直ぐに僕の元へ届く少女の言葉は、いつだって心地良かった。
「僕は、いないと思ってる」
 出来る限り彼女と交わす会話の波長を乱さないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 僕の答えに概ね満足したのか、少女は微笑んだ。
「あなたらしい答えね。けれど教会に住んでいるのに、そんな心持ちで天罰が下らないかしら」
 悪戯めいた表情で話す彼女の、本心は見えない。この屋上で話す奇妙な付き合いも長くなるけれども、お互いに分からない部分も多い。
「僕は教会に住まわせて貰っているだけで、信者じゃない。神さまを信じてない人間に、天罰を下すのも難しいんじゃないかな」
 僕の素っ気ない返しにも、少女は文句一つ言うこともない。僕らは、そう言う関係だ。
「空乃は、神さまを信じているの?」
 僕が呼び掛けた少女───空乃イノリは、首を捻って考えるポーズをとった。
「わたしは、信じていると言い切ることは出来ないわ」
 曖昧な彼女の答えが、僕から見たら少し意外だった。
「君は、神さまなんて一切信じていないんじゃないかと思っていたよ」
 再び悪戯めいた笑みを浮かべた空乃は、楽しそうに声を弾ませる。
「あら、どうしてそう思うの?」
 彼女から視線を外した僕は、屋上の手すりにもたれ掛かりながら、眼下に広がる街を見渡す。見慣れた景色は、何も変わることもなく僕の目に映った。
「君が何かを信仰している類いの人間だとは、とても考えられないから」
 僕から見える空乃は、選び取る言葉と伝える仕草に、いつだって自信が満ち溢れていた。
「あなたが想像しているほど、わたしは完璧じゃないわ」
 けれども、僕の想いとは裏腹に、空乃は哀しそうに笑う。自分は間違っているんだと言わんばかりに、僕の肯定を否定する。
「きっと、神様がいるのを信じたいだけなのよ」
 彼女も街を見下ろしながら、ポツリと呟く。その言葉にどれほどの意味が込められているのか、僕には分からなかった。
「レイは、『幸せの青い鳥』を知ってる?」
 青い鳥。
 メーテルリンクが描いた、幸せをテーマにした童話だ。小さい頃に読んだ曖昧な記憶だけど、大雑把な内容だけは知っていた。
「幸せは、実はすぐ近くにあるっていう話で合っていたかな」
 空乃は頷いて、目を細める。
「幸せが遠くにも近くにもどこにも無かったら、どうすればいいのかしらね」
 溜息を吐く彼女に、僕は真っ先に考えた疑問を投げかけてみる。
「君は、幸せじゃないの?」
 当たり前だ、他人が幸せかなんて側から見て分かるものじゃない。いかに幸福そうに見えても、心の中では不幸を嘆いているかもしれない。
「不幸とは言わないわ。でも、わたしは自分を幸せだと思ったことはない」
 僕の方へ向けられた視線と目が合う。透き通った黒い瞳に、吸い込まれそうだった。
「空乃にとっての幸せは、どういうものなの?」
 幸福は、人によって基準が違う。簡単に幸せを感じられる人もいれば、それが難しい人もいる。決めるのはいつだって自分自身だ。
「難しい質問ね」
 言いながら空乃は、僕と同じように手摺りへ体を預けてもたれ掛かる。彼女の女子にしては短めな後ろ髪が、風で少しだけなびく。一枚の絵みたいで様になっていた。
「不幸を受け入れることが、一番近道の幸福なんじゃないかしら」
 僕は言葉の意味を噛みしめてから、なるほど、と呟いた。言いたい意味は分かった気がした。
 結局、ある水準の幸福を誰よりも認められていないのは自分自身だ。妥協して不幸を受け入れれば、少しは幸せを感じられるのかもしれない。
 真夏の陽射しが、屋上のアスファルトに突き刺さる。僕らは日陰で話し込んでいるが、決して涼しいわけでもなかった。
 そんな熱も意に介さないのか、空乃は涼しげな顔で続けた。
「きっと、人が自ら命を断つのは、自分の不幸を受け入れきれなかったからなのよ」
 街を見下ろしながら呟く彼女に、僕は聞き返す。
「それはどういう意味?」
 空乃はいつも危なげだ。幸せとか命とか曖昧な話が好きで、それが当たり前じゃないものだと言わんばかりに言葉を紡ぐ。
 だからいつだって、僕は空乃の話し相手でありたい。彼女が背負っているものを、少しでも軽く出来るように。
「ねえ、レイ。そんな泣きそうな顔をしないで」
 空乃は優しい表情を浮かべて、いつもと同じみたく哀しそうに微笑む。
 彼女は命や幸せを重く考え過ぎていて、いつか重さに耐え切れずにそれらを捨ててしまうのかもしれない。
 空乃は、ずっと死にたがっていた。

 僕が空乃と話すようになったのは、今から半年ほど前だった。凍てつく風がまだ吹き止まない一月頃、放課後に窓から雪が降っているのを見掛けて、ふらっと屋上へ足を運んだ。誰もいない場所で、白く染め上げられた空を見上げたかった。
 屋上へ足を踏み入れると、空から細かい粉雪がはらはら舞い降りていた。掌を広げて、目に見えない雪の結晶をゆっくりと受け止めた。外の寒風に晒される以外の冷たさが、少しだけ掌から伝わってきた。
「こんにちは」
 一人で感慨に耽っていたが、突然の声に思わず反応した。僕に話しかけてきたのは、扉のすぐ側に背を預けている少女だった。
 制服を一瞥してこの学校の生徒であることは分かったけれども、僕はその少女と面識がなかった。
「いい天気ね」
 彼女は先ほどの僕と同じように、空を仰いだ。まるで降ってくる雪みたいな声だった。少女の言葉は透明で、今にも消えてしまいそうだった。
「君も、雪を見に来たの?」
 少女がゆっくりと顔だけ、僕の方へ向き直る。綺麗な黒い瞳だった。
「そうね。見られたのは嬉しいけれど、雪が目的じゃなかったわ」
 不貞腐れた口振りで、彼女は続ける。
「わたし、今から死ぬつもりだったの」
 僕は耳を疑ったが何も反応せず、言いたい言葉を飲み込んで、少女が続きを話すのを待った。
「誰もいない場所で、綺麗な雪に包まれて、静かに飛び降りるの。素敵でしょう?」
 悪戯めいた笑みを浮かべながら僕に同意を求めてくる彼女は、何故か嬉しそうだった。
「でも、この場所にあなたが来た」
 迷惑がっているわけでもなく、嬉しそうな態度を崩さないまま少女は続ける。
「初対面で見ず知らずのあなたは、果たしてわたしを止めるのかしら」
 試す言い方で僕の顔を覗き込む彼女は、何を考えているのか分からなかった。今話していたことが全て真実に聞こえるし、嘘にも聞こえる。僕には判断出来なかった。
「邪魔をしてごめん。どうしてもと言うなら、今の僕には止められないよ」
 考えを一通り巡らせてから答えた僕に、少女は首をかしげる。短めの後ろ髪が動きに合わせて揺れた。
「事情を知らないから、止めないのかしら」
 依然と、僕の真意を諮っている彼女の表情は変わらない。僕はゆっくりと言葉を選び取り、少女に伝える。
「死を選ぶのって、大変なことだと思うんだ。たくさん悩んで苦しんで、ようやく出す決断なんじゃないかな」
 少し考える素振りを見せて、彼女は同意する。
「それは、そうかもしれないわね。色んなことを考えたもの」
 少女から目を逸らし、降り続ける雪を仰ぎながら僕は続ける。
「誰かがそこまで思い悩んだ行動に対して、他人の僕が口を挟むなんて出来ないよ」
「もしあなたがわたしの友達か、それとも恋人だったら止めるということ?」
 僕は首を横に振り、小さく息を吐く。真っ白な靄が天へ昇る。
「そうだね、きっと止める」
 僕は彼女の方へ向き、右の掌を差し出す。
「どうせなら僕は君を止めたい。だから、とりあえず友達になろう」
 目の前の少女と会って話し始めて、まだ数分しか経っていない。けれども、僕のこの言い回しで、真面目な悪ふざけに彼女が付き合ってくれる予感がした。
 しばらく僕の掌を見つめていた少女は、やがて堪えきれなかったように、クスクスと笑みを溢した。
「あなた、面白いわ。名前を聞いてもいいかしら」
 まだ言い慣れない名前を、僕は噛み締めるように口にした。
「僕は、鳥海 礼。ここの一年生」
 僕の名前を聞いた少女は、思い当たった節があったのか、小さく呟く。
「街にある鳥海教会と関係があるのかしら」
 僕は頷いて、思い出したかのように行き場のなくなった右手を下ろす。
「訳があって、そこに住ませてもらっている」
 この街には、鳥海教会という小さな教会がある。十年ほど前に、僕はそこの神父に拾われた。本当の名字は分からないので、鳥海の名を借りている。
「あなたも色々あって、この場所へ来たのね」
 何かしらの境遇を重ね合わせたのか、少女は哀しそうに笑いながら続ける。
「わたしは、空乃 祈。よろしくね、レイ」
 僕はこの瞬間、少女───空乃イノリと無関係ではなくなった。少なくとも、他人ではなかった。
 真っ白な空に手を伸ばしながら、空乃は僕へ告げる。
「またここで、会いましょう」
 僕は頷くしか出来なかった。死を選ぶことを諦めたのか、先延ばしにしただけなのか、聞かなかった。
 そして、彼女の気まぐれが続くことを願いながら、半年が過ぎた。
 
 季節は移り変わり、夏が訪れそうな青い空の下、僕らはまだ関係を保っていた。
「空乃と僕は、いったいなんなんだろう」
 唐突な疑問に、空乃は静かに目を伏せる。
「たしか、友達じゃなかったかしら」
 そうだ。たしかに僕たち二人は、半年前にそういう話をした。正確には、僕から友達になろうと申し出た。
「でもたしか、君は何も答えなかったよ」
 空乃から返事を貰った覚えはなかった。はぐらかされて、そのままお互いの話を淡々と続けていたはずだ。
「きっとその時は、友達にすらなる気はなかったのよ」
 誤魔化すみたいな苦い笑顔を浮かべた空乃は、そのまま続ける。
「だからといって、今は友達かと言われればそんな気もしないけど」
 それは分かる気がした。何も考えずに馬鹿みたいに笑いあって、沢山他愛ない言葉を積み重ねている僕と空乃は想像できなかった。
 僕らはいつだって、一つの言葉を噛み締めて、伝えるかどうしようか迷ったり、挙げ句の果て言葉にしなかったり、とても捻くれた関係だ。それを友達と呼ぶには、なんだか心の底で引っ掛かるものがある。
 僕らの関係はきっと、言葉には当てはめられないものだ。
 空乃と僕は知り合いだ。けれども、友達じゃない。それぞれの基準があっても、根本的な二人の気持ちは同じだろう。
 僕らの関係が言葉になったところで、そこに意味はない。
「空乃は、幸せになりたくないの?」
「なれるなら、なりたいわ」
 間をおかず、僕の問いが初めから分かっていたみたいに応えた。
「けれど、わたしが一般的に言われている幸せを得るには、自分自身を捨てないといけないのよ」
「自分を、捨てる」
 僕が呟きながら首を少し捻ると、空乃は独り言みたいに淡々と続ける。
「わたしは、自分の人格が不幸の上に成り立っていると思っている。色んな過去があって、潰されそうになりながらも沢山のものを背負ってきて、今のわたしがいる」
 空乃が少しでも自分の話を自ら打ち明けているのを初めて聞いた。黙って俯く僕に、彼女は続ける。
「わたしが幸せになるっていうことは、今までの自分を全否定するのと同じことよ。それは幸せだろうが不幸だろうが、許されない。誰よりもわたし自身が許さない」
 空乃が吐露する感情の一端に触れた僕は、何も言えなかった。
 彼女が自分の命よりも優先しているのは、矜恃だ。アイデンティティを失うなら死ぬも同然だ、ということだろう。その言い分も理解出来なくはない。
「僕と半年ここで過ごした時間は、君を何も変えられなかったんだろうか」
 思わず口を出た一言に、彼女は少しだけ表情を歪めたように見えた。
「もし、わたしが」
 聞き逃したら消え入ってしまう声を出しながら、空乃は僕を見つめる。いつも隠れている彼女の弱々しさが、珍しく前面に出ていた。
「あの雪の日、あなたが差し出した掌を握っていたら、わたしは何か変わったのかしら」
 初めて出会った屋上で、僕は空乃へ手を差し出した。君を止めたいから友達になって欲しい、と。けれども彼女は手を取らず、言葉だけで僕を認めた。
「言葉じゃなくて、あなたに掌で想いを伝えていたら、わたしは幸せになっていたのかしら」
 言わないと伝わらない想いがある。逆に言葉だけでも伝わらないものがある。誰かに心を伝える手段は、いつだって不完全だ。
「ねえ、レイ」
 何も言わなかった僕に、空乃は一言も触れない。彼女は僕のことを、どれほど理解しているのだろうか。
「やっぱり僕には、君を止められないよ」
 彼女が伝えようとした言葉を遮り、僕は空乃を見つめ返す。
 半年近くの間、彼女の瞳に僕はどれだけ映ることが出来ただろうか。
「それはわたしが、あなたの手を取らなかったから?」
 たしかに空乃は、僕との関係に何も言わなかった。僕も、空乃の考えに対して詳しい話を聞かなかった。二人とも、お互いのことを曖昧にして今日まで過ごしてきた。
「そうじゃない」
 何も全てを型に当てはめなくたっていい。友達でもなく恋人でもない。だからと言って、この関係に答え合わせをして、似合いそうな言葉を見繕う必要なんて、きっとない。
「僕はずっとこの場所で君と話をしていたい。それだけで良かったんだ」
 不幸を受け入れることが幸せだと、彼女は言った。僕の考えは少し違う。
 僕にとって幸せとは、誰かと理解し合うことだ。
 相手のことを全部受け入れられるなんてことは殆どあり得ない。それでも、少しでも分かり合うために誰かへと近づこうとする姿勢は、間違いじゃないはずだ。
「だから僕は、君を本気で知ろうとしなかった」
 僕はこの短い期間で、空乃へ近づこうとした。けれども、大切な何かが崩れて今の関係を失う気がして、あと一歩が踏み込めなかった。
 今更かもしれないが、たとえ関係が崩れても、僕は空乃の事情へ踏み込むべきだった。
 空乃にとって僕と過ごした時間は、きっと救いにはならなかった。
「わたしもレイと一緒にいる時間が、何よりも楽しかったわ」
 それはおそらく、彼女の本心に近いのだろう。僕を庇うつもりで言ったわけではないが、それ故に残酷だ。
 楽しかった。それだけだ。
「想像がつかないわね」
 遠い目をしながら、空乃は薄らと笑う。
「わたしがレイと生きることを選んで、隣で一緒に幸せを探す。それできっと、隣にいるうちに幸せになる。とっても素敵」
 もっと他愛ない話を紡いで、屋上以外の場所にも出掛けて、下らないことで笑い合う。そんな関係を、僕と空乃で思い描いてみた。けれども、それは。
「でも、そんな幸せを受け入れたら、それはもうわたしじゃない」
 僕と同じ考えを、空乃は淡々と口にする。
 悩んで苦しんでいる姿を隠して、いつも哀しそうに笑っているのが、僕にとっての空乃だ。自分の隣で無垢に笑っている彼女を見て、僕はそれを受け入れられるだろうか。
「僕も、それは受け入れられない」
 人はすぐに変わるなんて、出来ない。空乃も僕も、今まであった過去を背負ってこその自分だ。他人に踏み込めず、相手に自分を曝け出せていない僕らは、心の底から笑い合うなんて無理な話だろう。空乃が死を選ぶのが変わらないのと、僕らの関係が曖昧なことが何よりの証拠だ。
 僕らは今の自分たちを、認めることから始めないと、きっと分かり合えない。
「わたしは結局あなたと分かり合えてはいないわ」
 一つずつ確認するかのように、空乃は続ける。
「今の自分を変えて幸せになる気もなければ、友達でもない。わたしはどうしようもないほど我儘で傲慢ね」
 自嘲気味に笑う彼女ですら、僕から見たらとても様になっていた。
「私を救う理由を何も持たないあなたは、わたしを止めるのかしら」
 先ほど僕が遮った台詞を、空乃は改めて告げる。
 もうわたしは死ぬから、引き止めないでくれという、僕らの関係に終止符を打つための、彼女が導いた答えだ。遠回しに言葉を選んだのは、善意からだろうか。
 空乃の覚悟を見届けた僕も、腹を括る。
「僕も、空乃に伝えることがある」
 僕の言葉を聞いた彼女は、なにかしら、と首を僅かに傾げる。その表情に満ちているのは期待か、哀れみか、色んなものが混ざっていて上手く読み取れなかった。少なくとも、僕の話を真剣には受け止めてくれそうだった。
 そして僕は、空乃が欲しがっている言葉を知っている。彼女の期待に応えられる唯一の言葉を、既に見つけていた。
「もし、この世界に神さまがいるなら」
 でも僕は、それを選ばない。
「僕は、神さまを信じてみようと思う」
 言っている意味が分からなかったのか、空乃は少し怪訝そうに顔を歪める。
「それは、どういう意味かしら」
「教会の神父を引き継ぐことになったんだ。学校も辞める」
 ますます意味が分からないといった表情を浮かべている空乃に、僕はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「神父になるというのは、救済するために生きるということだよ。そこには理由なんて必要ない」
 僕の真意に気がついたのか、彼女は息を呑んで少し俯く。
「だから、僕は君を助けたい」
 君を救うのに理由が必要なら、つくれば良かった。時間はかかるかもしれないが、神父としてなら空乃の本質に近づいて、手助け出来る。
 君にはまだ生きていて欲しい。遠回しになってしまったけれども、これが僕の出した答えだった。
 僕の言葉を聞いた空乃は、黙って俯いた。どんな顔をしているか見えないし、予想もつかなかった。
「やっぱり、あなたは面白い」
 おもむろに顔を上げて、消え入りそうな声で呟く。その儚げで綺麗な表情は、何かを振り切ったふうにも見えた。
「あなたなら、きっと沢山の人を救えるわ」
 それはまるで、自身を頭数に入れていない言い方だった。神父の僕が救えるのは、自分でなくその他大勢だと突きつけられた気分だった。
「ねえ、レイ。あなたが神父になるというなら、わたしは今から懺悔してもいいかしら」
 屋上に刺す燦々とした光は、変わらず僕らを照らしている。蒸し暑さも今は、気にならなくなっていた。
「僕で良ければ、聞くよ」
 空乃は頷き、街を見下ろしながら語り始めた。
「わたしには、幼馴染がいるの。一つ年下で、妹みたいに思っているわ」
 懐かしむように目を細めて、彼女は続ける。
「高校に入るまではよく一緒にいたけれど、最近は顔を合わせる機会も無くなってしまっているの」
「それは、君が避けているから?」
 何となく思いついた予想を口に出してみると、空乃は苦笑して言葉を濁した。
「これ以上一緒にいても、お互いに別れが辛くなるんじゃないかしら」
 自分がいつ消えても大丈夫なように、関係を断つ。大切な人ほど身を裂く想いなのだろう。
「いっそ全部話せるなら、楽だったのかもしれないけれどね」
 信頼出来る相手なら、理解して貰えるなら相談すればいい。言うだけなら簡単だけれども、それをお互いにやらなかった関係が今の僕たちだ。空乃の行動を間違っていると非難したくはない。
「けれど、いつだって辛いのは取り残される側だよ」
 僕の言葉に、彼女は溜息を吐いて首を横に振る。
「それでも、時間が経てばいつか忘れる。わたしという人間を、思い出にする日が来るわ。きっとあの子も、そうするはずよ」
 まるで馬鹿みたいね、と空乃は苦笑して続けた。何の根拠もない信頼を幼馴染に寄せていることを、自分でも分かっているみたいだった。
「わたしは、彼女を傷つける。でも、それを理由にやめることはない」
 何回か空乃と言葉を交わしたことで、僕は確信していた。彼女の意志が揺らぐことはない、と。
 僕がいくら生きて欲しいと希っても、空乃は頷かないだろう。彼女は生きること以上に、自分の意地を通したいだけなのだ。それは他の誰でもなく、自分自身のために。
「わたしは死ぬことを、後ろ向きな考えだなんて捉えていないし。生きることを正しいと思ったことはないわ」
「そんなことに前向きも後ろ向きも、正しさも間違いもない。あるのは死ぬっていう事実だけだ」
 多少の苛立ちを込めた僕の返しに、彼女は哀しそうに微笑う。
「わたしの幼馴染の名前は、白野 望。もしも神父になったあなたの元に訪れたら」
 一度言葉を区切り、空乃は僕に向き直る。
「ノゾミの話を、聞いてあげて」
 思えば、彼女からお願いをされたのは初めてだったかもしれない。いつだって空乃が選ぶ言葉は、手にしたら消えてしまいそうな、儚くて曖昧だけれど、決められた真実みたいな言葉だけだった。
「懺悔するなんて言っていた癖に、随分と身勝手な話じゃない?」
 僕の皮肉を知ってか、彼女は全くもってそのとおりよね、と呟いた。
 けれども、空乃自身の話はまた別だ。
「君の懺悔も約束も、僕は受け入れたい。だから、一つくらい僕の願いも聞いて欲しい」
 空乃は無表情で僕を見つめたまま、真意を探っている。その瞳に気圧されてしまえば、僕は彼女の望んでいる言葉を口にしてしまうだろう。
「そうね、聞くだけ聞いてみるわ」
 息を大きく吸い込んでから吐いて、一度落ち着いてみせる。
「死ぬな、なんて言わない。だから、僕に君の時間を分けて欲しい」
 すぐに空乃を納得させて助けるなんて、到底出来ない。僕に必要なのは、分かり合うための時間だ。
 友達でも恋人でもない。それでも、彼女に必要とされる存在になれるような、僕でありたい。
 僕の意図を何かしら察したのか、空乃はやはり哀しそうに首を横に振る。
「それは結果を先送りにするだけよ。わたしの結論は変わらないわ」
 それでも、たとえ一時的なものだとしても。
「僕は、君にとっての青い鳥になりたい」
 幸せはすぐ側にあるものなんだと、分かって欲しいから。
 空乃は一瞬、何かを言葉にしようと口を開きかけたが、何も言わずに黙って俯いてしまった。
 再びゆっくりと顔を上げると、少し楽しげに笑いながら曇りがかった空へ手を伸ばした。
「あなたには負けたわ」
 空乃の掌を目で追いかけながら、僕も苦笑を浮かべる。
「べつに、君に勝ちたかったわけじゃない」
 僕は再び、彼女の前に右手を差し出す。今なら、手を差し伸べてくれると信じていた。
「わたしの我儘に付き合わせていたんだもの。少しぐらい、あなたに従う」
 伸ばしていた手を、そのまま僕に差し出す。
 ただ微笑んでいる空乃を見て、僕らはようやく、分かり合え始めたのかもしれないと思った。
 本当にただ、それだけで良かった。
 けれど僕は、握手をした時に見せた空乃の泣きそうな表情を、ずっと忘れられずにいた。
 皮肉にも、結局のところ僕が生きていて欲しかったのは、死にたがっていた空乃イノリだった。


 ふと我に返ると、僕の視界に広がるのは見慣れた談話室だった。丁寧に装飾されたシャンデリアが、この部屋一帯を淡く照らし出している。
「大丈夫、ですか?」
 目の前のソファに腰掛けていた、制服を着た少女に心配される。今は、彼女の話を聞いている最中だった。
「失礼しました。お話を続けてください」
 僕の声音に安心を取り戻したのか、今日初めてこの場所を訪れた少女は、ゆっくりと悩みを打ち明け始めた。

 少女の様子が落ち着いてひと段落した後、彼女を教会から見送った。心なしか足取りが軽く見えるのは、僕の願望に過ぎないのだろうか。
 教会に戻り、談話室まで足を運びなおす。静まり返った部屋を見渡して、再び思いを馳せる。

 僕も一緒に、君と死を選ぶよ。
 空乃は、僕にこの一言を望んでいたのだろう。どちらも生きて幸せを掴むのでも、どちらかが生き残る道でもなく、二人で死ぬ結末を見出していた。
 それを分かっていながら、僕は彼女の選択を拒んだ。まだ他に方法があるのかもしれないと、説得したかった。死ぬことで幸せになるのではなく、生きて幸せを見つけて欲しかった。
 僕が学校を辞めて神父として教会に携わり始めてからしばらくの間は、空乃も鳥海教会を訪れるようになっていた。しかし段々と足を運ばなくなり、最終的には姿を一切見せず連絡も途絶え、空乃がこの世を去ったことを人伝に聞いた。
 僕が彼女を止めなかったから。そして神父として、僕が彼女の意志を赦してしまったから。いくら時間を先延ばしにしても、僕は彼女の青い鳥にはなりえなかった。

 談話室のソファに一人で腰掛けて、溜息を漏らす。秋から冬に変わろうとしているこの頃、誰かの悩みを聞くことに疲れも抵抗も感じなくなってきていた。神父としての性が身についてきたのか、それとも自分自身の感情が麻痺しているのか。
 正しい言葉で悩める者たちを導く。これを同じ人間である僕が行うのは、愚かなことではないだろか。
 神父としての自分を否定する言葉や理由が、いくつか頭の中に浮かんでくる。こんなことはもうやめるべきだと、自分へ必死に言い聞かせているみたいだ。
 この世界に神さまがいたとしても、きっと空乃は命を断つ選択をしていた。
 そんなことはもう分かっていて、今更変えられることでもなかった。

 翌日の昼頃、白野ノゾミは教会に姿を見せた。
 彼女を迎え入れ、前回と同じく談話室へ案内する。
「お久しぶりです、鳥海さん」
 以前よりも晴れやかな様子が窺える白野さんに、僕も微笑んでそれに応える。
「演劇は無事に成功しましたか?」
 今年の夏、白野さんはここの教会の門を叩き、僕へ空乃の話を明かした。その際、秋の文化祭で演劇を披露するとも聞いていた。
 僕が用意したラベンダーの紅茶を一口飲んだ彼女は、静かに頷いてみせた。
「私の中では、引退に相応しい作品になったと思います」
 少し自慢げに答える彼女が微笑ましく、僕もつられてしまった。
「僕も是非見てみたかったです」
 自信があるのは、前を向いている証拠だ。少しでも僕の手助けが実っているのならば、それは喜ぶべきだ。
「鳥海さんにお話を聞いていただかなかったら、前向きな演劇は出来ていなかったかもしれません。今日はそのお礼を伝えに来ました」
 言いながら頭を下げた白野さんに、僕は静かに首を振った。
「僕は大したことをしていません。白野さんの中で何かが変わったのならば、何よりです」
 一度呼吸を置いてから、僕自身の話を切り出した。
「それと、僕から貴女に話さなければいけないことがあるんです」
 何でしょうか、と白野さんが首を傾げる。
 少し緊張していたからだろうか、冬はまだ早いのに背中に寒気が訪れた気がした。
「僕が知っている空乃について、お伝えします」
 僕の言葉を聞いた彼女は一度目を見開いたが、そこまで驚いている様子もなかった。
「空乃を、知っていたんですね」
「あまり驚かれないんですね」
 僕は白野さんと目を合わさず、目の前のティーカップを虚ろに見つめていた。彼女から何か弾糾されても、僕は謝ることしか出来ないだろう。
「鳥海さんの態度から、そんな可能性もあるんじゃないかと思っていました」
 僕の想像以上にあっさりした反応だったが、途端に白野さんの声音が少し険しさを増した。
「でも、空乃のことは知りたいです。教えてください」
 紅茶の水面を見つめていた目線をあげると、彼女と視線がぶつかった。僕もここで誤魔化す気もなかったので、真摯に向き合おうと腹を括った。
「ありがとうございます。空乃もきっと、それを望んでいたはずですから」
 それだけ言って、僕は脳裏で空乃の面影を追いかけながら、白野さんへゆっくりと語り始めた。
 空乃が僕へ選んだ言葉を間違えないように、丁寧に記憶を辿ると、その光景は想像以上に鮮明だった。それを知った瞬間は嬉しくもあったけれども、思わず苦笑してしまう部分もあった。
 僕にはまだ、こんなにも空乃へ未練があったのだ。
 
 途中で言葉に詰まりつつも、僕は一通り話し終えたところで大きく息を吐いた。白野さんは俯いて黙ったままだった。
「空乃は、何度か白野さんの話を僕にしていました。直接話をしたら、貴女を傷つけてしまうんじゃないかと心配もしていました」
 彼女の表情は見えなかったけれど、僕は真っ直ぐ前を見て白野さんに言葉を届けようと試みる。
「貴女が空乃について話してくれた時に、黙っていてすみませんでした」
 白野さんが教会を初めて訪れた日、僕は空乃の話を切り出せなかった。そこまで心の整理がついていなかったというのは言い訳にしかならない。
「鳥海さんが、悪いわけじゃありません」
 僕の謝罪に答えて、白野さんは感情を押し殺したような声でポツリと呟く。
「鳥海さんが見た最期の空乃は、どんな顔をしていましたか?」
 僕は目の前の紅茶を飲み干してから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今までと同じです。哀しそうな顔で、静かに笑っていました」
 そうでしたか、と白野さんが消え入るようなか細い声で呟く。
 ティーカップをテーブルにそっと置きながら、僕は空乃と最期に交わした言葉を思い出しながら、ゆっくりと声を出す。
 それは希望のような、あるいは呪いのような言葉だった。
「でも空乃は最期に、僕へ言葉をくれました」
 俯いた顔を上げて、白野さんは僕へ続きを促した。
「それは、どんな言葉だったんですか?」
 僕は空乃が言ったセリフを脳裏に思い返しながら、一言一句間違えないように声に出してみる。
「生きていたかった、って」
 白野さんは少し目を見開くと、やがて困ったような微笑みを浮かべた。
「それも、彼女らしいですね」
 頷きかけた僕も、彼女に対して笑えているだろうか。精一杯の気持ちを込めて笑ったつもりだった。
「私は、空乃を引き止めたかったです。でも、そこまで彼女の近くに私はいなかった」
 空乃は白野さんを傷付けないために距離を置いていたのだから、それはそうかもしれない。結果的に、彼女を傷つける形にはなってしまったけれども。
「ずっと近くにいて止められなかった鳥海さんの方が、よほど辛かったのではないでしょうか」
 僕は苦笑しながら、そんなことはないんじゃないかな、と呟いてみた。
「人の辛さに、上も下もないですよ。どちらも辛いですから」 
「でも鳥海さんは、空乃を止めなかったことを後悔しているんですよね?」
「そう、ですね」
 空乃の意志を尊重したからこそ、僕は後悔している。誰かを助けるために神父の役職に就くべきではなかった。たとえ、僕自身が空乃を助ける選択が無かったとしても、方法を探し続けるべきだった。そもそも僕が、彼女と一緒に死を選ぶべきだった。
 少し思い返しただけでも、無数の後悔が頭を過ぎる。今となっては無意味な考えばかりが、僕の心を埋め尽くしていく。
「未だに後悔しているし、間違いだったと思っています。でもそれ以上に、僕にとって彼女の想いが大切だった。だから、これで良かったんです」
 空乃への生きていて欲しかった願いと、いなくなってしまった悔いは、僕の中で天秤に掛けられるものじゃない。
 彼女への願いも後悔も間違いも、僕が背負って生きていく。
 僕の表情から何かしらの想いを汲み取ったのか、白野さんは優しそうに笑った。
「もし、何かあれば言ってください。私も、鳥海さんの力になれれば嬉しいですから」
 恩を返したいですから、と少し照れ臭そうに彼女は続けた。
「神父の僕が言ってもらうには勿体無い台詞ですが、ありがとうございます」
 苦笑して答える僕も、少しだけ気持ちが軽くなった。
 冷えてきた季節の中で、あたたかな雰囲気が談話室を満たす。白野さんと少しだけ分かり合えた空間は心地良かった。
 頭の片隅で、最期に空乃と会った日の記憶が再現されていく。

「ねえ、レイ」
 広い談話室に空乃の透き通った声が響く。 
 無言のまま彼女と目が合い、そのまま何も言わずに続きを促す。目の前の紅茶に手をつけるが、ティーカップを持ち上げてから空だったことに気が付く。紅茶が入ったピッチャーを取りに行こうと立ち上がりかけたが、一先ず空乃の話を聞くために腰を落ち着ける。
「べつに構わないわ、取りに行っても」
「いや、いいよ。先に話を聞く」
 僕の答えに空乃は苦笑しながら、べつに大切な話ではないわ、と続ける。
「どうしてあなたは、私が死にたい理由を聞かないの?」
「それは君の中で、大切な話じゃないの?」
 想像していた他愛ない話とは異なっていたので、思わず僕は問い返してしまう。今まで一度だって、彼女から理由に関して聞かれたことはなかった。
「わたしが抱えている理由なんて、大したものじゃないわ。ただ、レイがどう思っているのか少し気になっただけよ」
 空になったティーカップの底をぼんやりと見つめながら、僕は少しの間考え込んだ。
 空乃が死にたいと言った理由が気になっていないわけじゃない。病気だとか、気まぐれだとか、これまで色んな原因を思いついていた。気になっていないよ、と彼女へ伝えることは容易だけれど、言葉にしたらそれを嘘だと僕自身が自覚してしまう気がする。
「今の君に聞いたら、答えてくれるの?」
 空乃は装飾華美なシャンデリアを仰ぎながら、独り言みたいに呟く。
「あなたなら、構わないわ」
 それなら、と声が喉元まで出掛かったが、僕はゆっくりと言葉を飲み込み、べつの台詞を捻り出した。
「聞かないままで、いいよ」
「本当に、わたしは気にしないわよ」
 僕が遠慮したと思ったのか、珍しく彼女が苦笑いしながらフォローを入れてくれた。いつも浮かべている笑顔よりも、よっぽど素直な感情が表に出ている気がした。
「それとも、事情を聞いたらあなたの気持ちが揺らいでしまうのかしら」
 彼女はいつもの悪戯めいた笑みを取り戻して、僕の心を見透かしたようなことを言う。いつだってそうだった。
 僕は空乃を止めたかった。少しでも長い時間、話をしたかった。この関係を、続けていたかった。
 けれど、僕の答えはもう決まっていた。
「僕は君が大切だ。だから、止めない」
 大切だ、という言葉にどれくらいの意味を込められただろうか。大切だから、壊したくない。彼女の生き方や意志を、僕は尊重したかった。
 僕のセリフに、空乃はクスリと笑みをこぼして続ける。
「わたしは、幸せ者ね」
 彼女は冗談を口にしない。だからこそ僕はその言葉に驚いた。
 僕の目の前に置いてある空のティーカップを見つめながら、空乃は続ける。
「放課後に何気なく、お茶を楽しみながらあなたと話ができるんだもの。これはきっと、幸せと呼んでいいんじゃないかしら」
 遠回しな意図を察しつつ、僕は知らないフリをして素っ気なく答える。
「君は、紅茶を飲んでないでしょ」
 空乃はラベンダーの紅茶を好まなかった。別の物を用意しようとしたが、要らないと何度も断られた。
 揚げ足を取る言葉に空乃は苦笑しながら、続きを淡々と話し始める。
「この場所へわたしが来なくなったら、寂しい?」
「それは勿論、寂しくなるよ」
 彼女の話が聞けなくなることは、僕としては哀しい。
「でも、あなたも神父らしくなってきたことだし、わたしがいなくても大丈夫なんじゃないかしら」
 空乃の投げやりな台詞に、僕は呆れながら微笑み返す。
「そんなにまともな仕事をしているつもりもないよ」
 実際にやっていることと言えば、フラッとこの場所に訪れた悩める人の話を聞いて、少し言葉を投げ掛けているだけだ。大層な祈りを捧げている訳でも、誰かを祝福している訳でもない。とても神父をしているだなんて、自分の口から言えるものではない。
 空乃は少し目を細めながら、無理に笑おうとした。
「ここに来るのは、今日で最後にするわ」
 その言葉に対して特に驚きもなく、僕は空乃へ何か言葉を返そうとするが、再び口を結んだ。
「そろそろ、もう行かないと」
 そう言って空乃はソファーから立ち上がり、僕へ別れを告げる。
 やっぱりどうにか引き止めたかった。けれど、もう納得していた。
「ねえ、レイ」
 立ち上がって背を向けていた空乃は、少しだけこちらを振り返り僕へ声を掛ける。表情は横髪に隠れて見えなかった。
「あなたと、生きていたかったわ」
 僕は立ち上がらず、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「僕もだ」
 それだけ迷わずに答えると、口元だけ微笑んでいるのが見えた。ひょっとしたら、見間違いだったかもしれない。
 談話室の扉へ向かう空乃の背中を瞳に焼き付けてから、そっと目を閉じる。
 扉が閉まった音を聞いた頃に目を再び開けると、そこにはもう、誰もいなかった。
 空乃の透明な言葉だけが、僕の心に残っていた。
 いつかまたどこかで、僕は空乃に会いたい。
 たとえこの世界に神さまがいなくても、叶わぬ願いを僕は祈り続ける。

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