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「待つ」とは受動的なのか、能動的なのか?

「待つ」にはいろいろな意味があると思います。

未来に対する希望だったり、変えられないと思っている未来への諦めだったり、つらいことに耐え続けることだったり、考えることを放棄することだったり。

多くの場合は、「待つ」には、『時が解決してくれる』という意味が含まれているような気がします。

ですが、随分前の話になりますが、「哲学対話」という講座に参加したことがあって、その時に、

「待つ」とは能動的なのか、受動的なのか?

という問いかけを受けたことがあります。

「時が解決してくれる」ことを期待しているのであれば、受動的なのではないかと思っていました。そもそも、能動的な「待つ」があるとは意識をしていなかったのです。

ですが、問いを受けて、能動的な「待つ」があるかもしれないと思いました。

少し古い本になりますが、河合隼雄さんの本に、以下のようなエピソードが書かれていました。

I:三月ごろに人から「もう落ちつかれたでしょう」と言われたことがあったんですが、それになんとも言えないギャップを感じました。震災から二ヶ月後くらいですが、私にとっての時間と、その人にとっての時間は、また意味が違うんですね。
K:日本人はあいさつのときにそういう言い方をする人が多いですね。それで「はい」と言われると、自分も安心できるから。そうすると、そう言われたほうもうるさいから、たいてい「はい」と答えるんですよ。
I:私も言いました。(笑)
K:そこでギャップができて、あとの会話が続かないね。
I:もうその人には話さんでおこうと思いました。
K:そうでしょう?心のケアとかなんとか言っている人にも、そういう失敗をする人がすごく多い。「どうですか、もうそろそろ」なんて言われると、立ちなおらなければいかんみたいな格好になってくるから、よけいに苦しめる結果になるんです。
I:さすがプロだなと思いましたが、なんにも言わずに聞いてくれた人がいましたね。なんにも言わずに聞いてくれることがこんなに大事なのかと、身にしみて感じましたから。
K:へたに慰めたりもしない。はじめから元気づけられたってどうしようもないもの。

河合隼雄『心理療法の現場から〈上〉』 石川敬子との対談の章

これは1つの能動的な「待つ」のカタチなのだと思います。何か聞きたくなっても、言いたくなっても、ぐっとこらえて耳を傾ける。きっと、上記のIさんの話を聞いていた人はそんなことをしていたのではないでしょうか。

先日、会社の中で長時間の話し合いの場がありました。私はいつもファシリテーター役をすることが多いので、自然とそういう役回りをしてきたのですが、前回は意図的に進行役をすることを殆どしませんでした。

急にいつもと違うと機嫌が悪いんじゃないかとか、やる気がなくなってしまったんじゃないかと誤解されるかもしれないので、冒頭で意図を説明をした上で、です。

このような説明をしました。「ところどころで発言の要約をしたり、話の流れをコントロールしたりすると、場のクリエイティビティがファシリテーターの認知の限界範囲の中にとどまってしまう。今日は参加者の創造性を最大化するために、介入を最小限なものにします」

結果的に、いつもと大きく違う場になったと思っています。

ただ、自分は当日にどういう感覚を持っていたかと言うと、いつもと大きく異なるスタイルで進行したので内面では強い違和感を持っていました。いつもだったら、ここで何か言っているだろうなというときに、ぐっとこらえる場面がたくさんありました。

一見すると、ただ何も発言せずに聞いているだけだったのだと思いますが、これが能動的に「待つ」ということなのだと思います。待ちながら、昔に「待つ」とは能動的なのか、受動的なのか?という問いかけをされたことを思い出しました。

そして、ただ話さないだけでいいのかと言うとそうではなくて、「聞き方」が重要なのだとも思いました。発言しなければいいという単純なものでもなさそうです。

もう一度、書籍「LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる」を読み返してみようと思います。


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