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「勉強と自己破壊」という話

まえがき

 私は、子供たちが大人に「勉強なんて何の役に立つの?」と尋ねる場面を何度も見てきました。たしかに、子供たちからしてみれば「平方根の計算が出来るから何なのか」「古典が読めるから何なのか」というようなことを疑問に思うのでしょう。


 そして、この質問に大人たちも上手く答えられていない人が多いようにも感じました。「そういう決まりなんだから勉強しなさい」「口答えせず勉強しなさい」と、そんな歯切れの悪いことしか言えない。


 たぶん、大人たちも勉強をすることの価値がわかっていないのだと思います。だから歯切れの悪いことしか言えない。


 では、勉強することの価値とは一体何なのでしょうか。今回は勉強について考えてみようと思います。



知っていることにしか興味を示さない人たちの増加

 以前、「「日本架橋論」という話」という記事で、人々は自分の知っていることにばかり興味を示すようになったということを書きました。(詳しくは以前書いた記事に詳しく書いてあるので、興味があれば読んでみてください)。


 自分の知っていることにばかり興味を示し、自分の知らないことには一切関心を示さない。知的好奇心がない人ばかりが増えたのです。学ぶ意欲がない人たちが増えたのです。教育学者の齋藤孝はそのような人たちについて次のように語っています。


私の言う「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受身の快楽にふけるあり方」のことだ。「学ぶ意欲」それ自体が、そもそも内発的に起きてこない、いくらでも学ぶ道はあるのに、ゲームや友人同士のメールに時間を湯水のように注ぎこんで疑いを持たない、そんなあり方を、私はどうしても看過できない。なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分の明日を今日よりも良い日だと信じることができない。「生きる力」とは「学ぶ意欲」とともにあるものだ。
(齋藤孝 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』)


 齋藤は学ぶ意欲のない者を「バカ」と表現しています。流石に「バカ」は表現上よろしくないので「無知」とでも言い換えましょう。笑。


 たしかに、学ぶ意欲がない人たちは賢くなれません。自分が知らないことを知りたいと思えるから、人は学ぶわけですし、そうして学ぶことで知らないことを知り、より賢くなっていくわけです。


 けれど、学ぶ意欲がない人たちは知らないことを知りたいとは思わないので、いつまでたっても知らないことを知ることはできませんし、賢くもなれません。



横並び意識と向上心の欠如

 では、何故人々は学ぶ意欲をなくしてしまったのでしょうか。その理由を齋藤は「垂直思考から水平思考の世の中へ」変わってしまったからだと説明しています。


 明治時代以降、「書生」という社会システム(習慣)や旧制高校的教養主義などを通じ、自己形成をしていく若者は数多くいました。自分を超えたもの、自分よりも大きなものに敬意を払い、それと対比して垂直的に自分を掘り下げたり、あるいはそこに向かって自分をつくっていったわけです。しかし、今は、自分という核を持たないまま、ひたすら水平的に「何かいいものはないか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけ。最近の世の中はこれを「自分探し」と称していますが、こういう風潮が始まったのは一九八〇年代ごろからです。
(齋藤孝 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』)


 つまり、昔は習慣としても、制度としても、人々の精神としても、自分を超えた存在を目指すという垂直思考(向上心)があったわけです。それが、時代の変化とともに水平思考に変わり、人々は向上心を失っていくことになります。

 

 水平思考が広まった社会では「自分探し」というような薄っぺらい考えが受容されるようになります。「本当の自分」が存在し、それを探しているのだというような薄っぺらい物語を人々は信じているのです。「自分探し」の薄っぺらさについては、後で詳しく書きます。



無知を肯定する社会

 さて、水平思考により人々は向上心を失ったわけですが、今やそうした人たちが、数少ない向上心のある人達を馬鹿にするようなことを言っていたりします。例えば、「あいつは意識高いw」とか「あいつはガリ勉w」だとかそういった言葉です。



 向上心のある人達は、横並び意識のある人たちからしてみれば鬱陶しい存在なのでしょう。「なんであいつは俺らと違うんだ」となれば、大体いじめや足を引っ張るような現象が起きます。そして、いじめに屈し、無知な人たちと横並びにならないと無知な人たちの攻撃は止まない。だから、向上心を捨てるしかない。そして、向上心を捨てた人もまた、他の向上心のある人を攻撃をする、という負の連鎖が起きるわけです。


 これでは、誰もが横並びになり、結局向上心が湧いてきません。学ぶ意欲が内発しません。


 また、最近では無知であることを肯定するかのような社会にもなり始めています。以前にも書いたことがあるのですが、今の社会では「何が正しくて何が正しくないのか」というようなことを見分ける知性そのものの価値が見失われ始めています。


 例えば、レッドブルの広告である「くたばれ、正論」や正論を嫌がらせと考える「ロジカルハラスメント(ロジハラ)」などです。



 他にも下記のようなツイートを見かけました。



 元ツイートは3万もいいねがされるほど、人々は何が正しいのか、そもそも正しさに価値があるのかすらわからなくなってきているのです。


 もはや、何が正しいのか判断する知性すらどうでもよくなっているのです。「人を傷つけるくらいなら正しさなんかどうでもいいじゃないか」「正しさなんか無視して自分らしく生きろ」というような知性の放棄、無知の肯定化をする、今はそのような社会です。


 齋藤は次のように語っています。


 ところが、ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中が一気に変質してしまったのです。
(齋藤孝 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』)


 レッドブルの広告には、はっきりと「自分の中のバカを守れ」と書かれていますが、まさにそれこそ「バカでもいいじゃないか」という開き直りなのだと思います。(当然ですが、無知で良いはずがありません。無知を恥じて勉強することが大事なんです。)


 「人を傷つけるくらいなら正しさなんかどうでもいいじゃないか」というような考えが一つの「やさしさ」であると考えられるようになったことが(それが本当の意味での「やさしさ」かどうかは別として)、無知の肯定化につながったのだと思いますが、齋藤はそのような「やさしさ」についても言及しています。


「やさしさ」はカウンターカルチャー(抵抗文化)の一種といえます。親が子どもを鍛え、社会が人を鍛え、その厳しさの中で何かを生み出していくのが従来の価値観でした。(中略)そういう社会が肌に合わない若者にとって、「やさしさ」は別の価値観の旗印になったのです。(中略)人に対しても、自分に対してもやさしく、「本当の自分」を見失わない生き方をずっとしていたい。この考え方を「永遠に若者でいたい症候群」(中略)だったわけです。
(齋藤孝 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』)


 何が正しいのか、正論や正解、正義には自分ではコントロールできない「厳しさ」があります。そのカウンターとして「やさしさ」という価値観を若者たちが共有し始めたことが、今となっては無知の肯定化につながったのだと齋藤は指摘しています。


(正しさが何故大切なのかは以前にも書いたことなので今回は割愛します。)



内面のない人たちの内面語りが溢れるSNS

 齋藤は「人に対しても、自分に対してもやさしく、「本当の自分」を見失わない生き方をずっとしていたい。」というような未熟な考えをしている人間たちを「永遠に若者でいたい症候群」と表現しています。


 これは、先ほど話した「自分探し」の話ともつながります。「本当の自分」が存在すると思い、「自分らしさ」を追求しようとするあまり、「自分」というものに枠をつくろうとします。


 思想家の内田樹は「自分らしさ」という言葉について次のように語っています。


「自分探しの旅」とか「自分らしさの探求」というような言葉を僕はこれまでずっと「なんだか嫌な感じの言葉だな」と思っていました。それは、そういうことを口にする人間が、しばしば「管理する側」の人間だったからです。彼らは別に子どもたちや若者たちが成熟し、変化して、自由に生きることを求めているわけではありません。そんなはずがない。だって、そんなことになったら「管理しにくくなる」に決まっているからです。「自分らしく生きろ」という、一見すると子どもたちを勇気づけるように聞こえるメッセージは、実はその本音のところでは、「はやく『自分らしさ』というタコツボを見つけて、そこに入って、二度と出てくるな」と言っているのではないでしょうか。だって、そうじゃないですか。自分らしさを見出すことにそれほど価値があるのだとしたら、「これが『自分らしい生き方』です」と宣言した後に、「あ、やっぱりあれはなしにしてください。違う生き方がしたくなっちゃいました」と言い出すことにはかなりの心理的抵抗があるはずだからです。一度生き方を決めたら、自分の「ポジション」を決めたら、あとは一生そこから出てはならないという有形無形の圧力を「自分らしく」という呪符が生み出している・・・ 
(内田樹 『サル化する世界』)


 私も内田の意見に同意します。「自分らしく生きろ」の裏には「身の程を知れ」という言葉が隠されているようで好きになれません。「お前らしさは決まっているのだからその枠からははみ出るな」と、言われているようで好きにはなれないのです。


 当然、そのような「自分らしさ」を追求する、「自分探し」をする人たちは薄っぺらい人間になっていきます。「ひたすら水平的に「何かいいものはないか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけ」の自分探しをしている人間は平板な存在になります。


 ただ消費行動をするだけ、ただどこのレストランがおいしいといった情報を知っているだけ。要するに、自分自身もフラット(平板)な存在になってしまうわけです。そこには、人間にとってもっとも重要なはずの「奥行き」「内面」がありません。
(齋藤孝 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』)


 自分に枠を作り、その枠から出ようとしないような人間は「内面」のない人間になってしまいます。そして、今の社会は内面のない人間が多い。そうした内面のない人間たちほど内面語りをしたがる。


 当然ですが、内面のない人間たちの内面語りはつまらないです。なぜなら、奥行きがなく、薄っぺらいことしか言わないからです。コピーライターの田中泰延は次のようなことを語っていました。


 田中:自分の内面を書きたがる人はいますが、たいがい、つまらない。つまらない人間とは、「自分の内面を語る人」なんですよ。有名人は別ですが、他人はそれほどあなたに興味がありません。
(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66236?page=3 より)


 私には、ろくに内面も磨いてもいない人間の内面語りばかりが今のSNSには溢れているように思えて仕方がありません。


 世間はいつまでたっても薄っぺらいカリスマに熱狂し、ろくに内面を磨く気にならない人たちが多いままです。批評家の東浩紀は近年のSNSについて次のように語っています。


「コミュニケーションのテクノロジーがいくら進化しても、人々は同じように喧嘩し、恋愛し、薄っぺらいカリスマに熱狂している。人々の行動パターンはあまり変わっていませんし、関心をもつことは何も変わっていない。」
(https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter11-1/ より)

 

 「自分らしさ」みたいな薄っぺらい言葉に惑わされて、「人間にとってもっとも重要なはずの「奥行き」「内面」」を忘れてはいけません。


 内田は「自分らしさ」を追求する人間の問題について次のようにも語っています。


「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に対応できるはずがありません。
(内田樹 『サル化する世界』)



勉強と自己破壊について

 学ぶということ、勉強するということは自分の枠を破壊する行為です。今までの自分ができなかったこと、わからなかったことをわかるように、出来るように自分を変化させる。何かができなかった(あるいはわからなかった)自分を破壊し、できる(あるいはわかる)自分につくりかえる行為です。


 哲学者の千葉雅也は勉強について次のように語っています。

 勉強とは、自己破壊である。では、何のために勉強をするのか?
何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?それは、「自由になる」ためです。(中略)勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。
(https://bunshun.jp/articles/-/2297 より)


 「自分らしさ」(という枠)に縛られている人間、例えば、「法律の知識がないのが『自分らしさ』なのだ」と決めた人は、そこから勉強して「法律の知識がある自分」に変化(千葉の言葉で言えば「変態」)することが出来なくなります。なぜなら、それは枠をはみ出てしまう行為だからです。


 勉強はそうした「自分らしさ」という枠を壊します。「自分らしさ」という枠を壊し、人々を自由に解放するものこそ「勉強」なのだと思います。ならば、何故勉強をしようとしないのでしょうか。


 冒頭で、「平方根の計算が出来るから何なのか」「古典が読めるから何なのか」というような子供たちの疑問を例に出しましたが、例えば、平方根の計算が出来れば建築士になれる自由が手に入りますし(勿論、平方根の計算が出来る=建築士になれるというほど単純ではありませんが)、古典を読めれば、偉人たちの考えを知る自由を手に入れることが出来ます。


 自由であることは人生を生きやすくします。例えば、ケーキしか作れない人がケーキ屋で働いていたとします。もし、ケーキ屋が潰れれば、ケーキしか作れない人は完全に路頭に迷うでしょう。けれど、もしその人がプログラミングの勉強をしていれば、プログラマーになって食つなぐことも可能です。勉強することで出来ること、わかることを増やしておくことは人生を生きやすくすることなのです。「学ぶ意欲」は人を自由にし、「生きる力」になるのです。



 わからないことは必死で勉強をする。知っていることだけでなく、知らないことも知ろうと勉強する。そういう意地が大事なんです。



大人になるという意味

 「大人になる」とはどういうことなのでしょうか。「成人年齢を迎えること?」「体が大きくなること?」。私は、そのどちらも違うと思います。


 先ほど学ぶということは、自分(らしさ)の枠を壊し、新しい自分を作ることだと記しました。できること、わかること、自分で管理できる範囲を勉強することで広げていく。そして、勉強することで自由の範囲を大きくする。


 私は、そうして自由の範囲を大きくできる人間こそ大人なのだと思います。「自分を大きくする」とは何も体を大きくするという意味ではありません。哲学者の戸田山和久は次のように語っています。


 子どもは、たえずやったことの理由を聞かれる。「どうしてそういうことすんの?」。子ども的には聞かれても困るのである。子どもの観点からは、そうするしかない、というか、そうなっちゃったんだから。そうして次が続く。「あんたのせいよ。あやまんなさい」。こうして、いまのところ自分が制御できない出来事に責任をもつことを教わる。このようなプロセスを経て、子どもは責任とりっこの実践に入る。そうして、責任を与えられることで、子どもは「自分を大きくする」ことを学ぶ。つまり、制御できる領域を広げていく。つまり自由の余地を広げる。
(戸田山和久 『哲学入門』)


 制御できる領域、管理できる範囲を広げて自由の余地を大きくする。自分を大きくする。そうすることで子供たちは大人になっていくのです。


 しかし、いまの社会で大人と呼ばれる人たちに本当の意味で「大人」の人など、どのくらいいるのでしょうか。体しか大きくなっていない、成人年齢を迎えただけで、まだ子供のままの人も多いように思えます。


 哲学者の鷲田清一の言葉を紹介しておきましょう。


今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。
(鷲田 清一,内田 樹 『大人のいない国 』)


 皮肉なものです。少子高齢化したと言われる日本が実は子供っぽい人間ばかりの国になっているのですから。


 私たちはもっと「大人」に憧れるべきです。「自分らしさ」というような薄っぺらいイメージを壊し、あるいは「永遠に若者でいたい症候群」を克服し、成熟すべきなのだと思います。



あとがき:noteと最近の虚無感について

 正直、あとがきに書くことなどほとんどないのですが、一応「○○という話」シリーズではあとがきを書くと決めているので、適当にあとがきを書いていこうと思います。


 私はnoteを書く際に自分の中でいくつかルールを設けて書いているのですが、その一つに「書いている記事が学術的になりすぎないように書く」というルールを設けています。これは以前書いた「日本架橋論」の言葉で言えば、身体感覚に裏付けられた言葉で思想を語るということです。


 例えば、学術書は「だ・である」で書かれることが多いですが、私の場合は、殆ど「です・ます」調で書いています。そして、タイトルが「○○という話」「適当に考える○○について」というような俗っぽい書き方をしているのも、学術っぽさをなくすためです。


 学者は俗っぽいタイトルを嫌い学術的なタイトルの本を書きますが、大体そういう本は売れません。難しいタイトルの本、難しいタイトルの記事は読まれない。だから、俗っぽいタイトルにする必要があるのです。


 これは何も私だけが気づいていることではありません。批評家の綿野圭太も出版社に勤務していた時代に学者たちが俗っぽいタイトルを嫌い、小難しいタイトルの本ばかりを出版していたが売れなかったということを指摘していました。


 また、哲学者のマルクス・ガブリエルも今の資本主義について次のようなことを語っていました。


 今日の資本主義の世界はいわば"商品の生産”そのものになった。”商品の生産”自体が、見せるための"ショウ”なのだ。
(岩井克人 丸山俊一 NHK 『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』)


 ガブリエルは資本主義はショウであると語っています。実際、彼の著書には『なぜ世界は存在しないのか』と『新実存主義』という二冊の本がありますが、どちらも書かれている内容はほぼ同じです。


 では、何故同じような内容の本を二冊も書いたのか。一冊だけで良いじゃないか。と、思われるかもしれませんが、これにはガブリエル自身のビジネス戦略があります。ガブリエル曰く『なぜ世界は存在しないのか』は一般人向けの本であり、『新実存主義』はいわゆる学者や哲学に詳しい人向けの本として書かれたのだと言われています。


 たしかに、『新実存主義』と言われても、哲学に詳しくない人からしたら、一見何のことだかわかりませんが、『なぜ世界は存在しないのか』と言われると「え、世界って存在しないの?」と哲学に詳しくなくても、一般人でも興味を持ちやすいタイトルをしています。つまり、ガブリエルは見せるためのショウとして、わかりやすいタイトルを選んだということです。


 他にも、東浩紀が、今の時代では思想や批評には娯楽性を含ませないといけないということを言っていたりします。


 いかにして、そんな学会やシンポジウムに興味のない「ふまじめな読者」を、娯楽性を偽装して巻き込んでいくのか。そこにこそ来るべき思想や批評の賭けがあるのではないか。
(東浩紀 『ゆるく考える』)


 と、まあそんな感じで、私も娯楽っぽい、俗っぽいタイトルで人文系の記事を書いているわけですが、最近、執筆意欲がなくなってもきています。


 というのも、学ぶことの重要性、知らないことを知りたいという人が減ってきているように感じているからです。もう学ぶ気がない人たちと関わってもしょうがないな、という一種の虚無感があるわけです。


 そうした人たちがどうすれば勉強をしたくなるのか、日本架橋論の言葉で言えば、自分以外の世界を架橋したくなるのか、そうしたことを考えているわけでありますが、これは私自身も地道に知を架橋してゆくしかないのだなとも思うようになりました。「自分らしさ」の枠を壊す気がある人、学びの意欲がある人、複数の世界を架橋できる人を地道に増やしてゆく。それが大事なのだと思います。


 最後に、すこしだけ抽象的な話をします。今回、勉強をすることで自分の管理できる範囲を大きくできると記しましたが、それは自分の世界を大きくすることを意味します。自分の世界が大きくなればなるほど、他者の世界との重なり合いが起きやすくなる。そして、その重なり合いこそ、世界を架橋するきっかけになるのです。だからこそ、私は学び続けることが大切なのだと思います。



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参照

・齋藤孝 著 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』 講談社 2008年5月20日

・内田樹 著 『サル化する世界』文藝春秋 2020年2月28日

・鷲田 清一/内田 樹 著 『大人のいない国 』 文藝春秋  2013年8月10日

・岩井克人 丸山俊一 NHK 著 『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』 2020年4月2日 東洋経済新報社

・戸田山和久 著 『哲学入門』 ちくま新書 2014年3月5日

・東浩紀 著 『ゆるく考える』 河出書房新社 2019年2月28日

・SNSに夢を抱く人たちが陥る「書きたいけど、書くことがない」問題 (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66236?page=3)

・勉強とは、自己破壊である――気鋭の哲学者・千葉雅也による本格的勉強論1 (https://bunshun.jp/articles/-/2297)

・東浩紀、『動物化するポストモダン』刊行から18年後の現在地を語る (https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter11-1/)

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