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ここ。これだよ。

映画「Perfect Days」を母と観た。

年末の帰省からあまり日が経っていないが、仕事でまた日本にきている。
連休の渋谷は、お正月の静かな顔とはうってかわって、外国人観光客や日本人の老若男女で賑わっていた。

帰るたびに迷宮の度合いが進む一方の渋谷。
小学校時代プラネタリウムに通った東急文化会館はとって代わられ、大学時代にバイトした東急東横店も消え、Bunkamuraも改装中。
これまた宮益坂のふもとにあった東映の映画館が、いつの間にかBunkamuraの別館に変わっていて。
そして、気になっていた「Perfect Days」をやっていた。

渋谷区のトイレを清掃する掃除夫の淡々とした暮らし、とネットで読んでいた通りだった。
でもそこには、もっと深いものがあった。

淡々とした暮らしを慈愛の目で見守るようかに建つスカイツリー。

軽自動車がキビキビと走り抜ける都心環状線、そして三宅坂トンネル。

シモキタの細い階段を上がったところにある薄暗い趣味に走ったお店。

自分の記憶や体験と、映像が二重写しになって見える。
同じであって、同じじゃないもの。
少し新鮮な目線で切り取られている、私のふるさと。

画面のなかに映っている東京が映画館のすぐ外に広がっているんだと思ったら、なんだか胸がきゅうっとした。

なんだろう。

日本映画をロンドンの映画館で観るのとも、バルセロナの友達の家でネットフリックスで観るのとも、違う。
外国人監督の目に切りとったトーキョーの街の映像を、でも日本の延長で観る感覚。

日本の映画を観た後、いつもだったらホームシックを感じて切なく映画館を後にするけれど、日本で観る日本の映画にはそれがない。
ちょっと甘ずっぱい。嬉しくって少しこそばゆい。

もしこの先、この映画を世界のどこかで観なおすときが来たら。
母と一緒に座った渋谷の映画館のことをとても大切に思い出す。

「ベルリン・天使の詩」を観たのは、少し背伸びした映画を観たかった高校生の時だったか。
確かスペイン坂にあったシネマライズ。
あれも渋谷で観たんだな。

役所広司といえば「Shall We Dance?」のイメージしかなかった私を打ちのめしたのが、ロンドンのBFI (British Film Institute)で観た「三度目の殺人」だった。
せっかく是枝監督作品特集をやってるからと何の気なしにひとりで行った私を。
圧倒して、悩まして、翻弄する。
役者の凄さをこれでもかと突きつけられた気がした。

「Perfect Days」は、余白や空白がたっぷり取られている。
表には出てこない、見せていない、けれども大きな何かが潜んでいる氷河の下を、役所広司が余白によって伝えていた。

みんなが、「何者か」になろうとSNSや電波の上でバタバタとするこの世の中で。
主人公は、むしろ「何者でもない」存在に、「空」の境地に至ろうと禅僧が清規に沿って淡々と決められた行持をするように。
決まったトイレに車を走らせ掃除をし、決まった木の下で木漏れ日を撮り、決まった居酒屋に足を運ぶ。
そこには隔絶というほど冷たくはない、けれども、心地よく世の中と距離を置いた時間の流れがある。

そのルーティンの中に散りばめられた感情の波立つ小さなエピソードをあれこれと追い、クスリと笑ったり、くすんと鼻を鳴らすうち。
私はいつの間にか、自分もキッパリサッパリ脂を落とした主人公の暮らしを繰り返してきたような気がしていた。

気づくと。
映画の冒頭には、刑務所の監視塔かあるいはビッグブラザーかと思えていたスカイツリーの姿が、まるで朝陽と共に愛を降り注ぐ天使のように思えてきた。

そして、ハッと思い出したのだ。

監督の名前を聞いたことがあったような気がしたのは、「ベルリン・天使の詩」のせいだったのかと。

カッコつけでミニシアターに外国映画を観に行くアタシ、が好きで観ていただけの映画と。
母と隣に並んで、自分のふるさとを天使の目線で映しとったような映画と。

同じ渋谷の街の映画館で、そんな違いにも思いを馳せることになった。

家族や、友達や、失くした恋や、飲み干したグラスや、そんないろいろが転がっている自分のふるさと。

よそいきの顔をせず、カッコつけもせず、そこにある地に足をつけた暮らしが描かれていることが、とてもうれしかった。

観終わった瞬間、自分の好きな誰かに、観てもらいたい、そう思っていた。
カタルニア人のブルーノに。
チェコ人のジリに。
アメリカ人のロッドに。

これだよ、私のふるさと。
ふふん、悪くない街でしょう?

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