正しいってなんだろう
アメリカで日本語を教えていた時、「日本語は伝統的には上から下、右から左に書きます。日本では車は左側通行します」そう説明すると、生徒たちは色めきたって「Wrong!(間違い!)」と叫んだものだ。
Wrongの反対はRight(正しい)。でも、自分にとって「正しいこと」と異なることが必ずしも間違っているわけではない。
だから、私はいつも「Different(違う)ということばをつかってね」といってきた。
違うという客観的事実にたいし、正誤というのはそれぞれの主観による判断が含まれているからだ。
考えたら、すべての文化や歴史や環境に共通する正義・正論というのはとても少ない。
同じ日本でだって、お雛様の左右は、関東と関西で違う。
誰かにとっての正しいことが、自分にとって正しいこととは限らない。
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小さいころから時代劇が大好きだった。
だいたい40分くらい経過したら、印籠がでたり桜吹雪がでたりして、悪人たちが「ははーっ」と頭を下げて降参する。勧善懲悪のストーリーはシンプルですっきりするものだったから。
でも、もしかしたら、悪代官にも厳しく年貢を取り立てるそれなりの理由があったのかもしれない。
ねずみ小僧は泥棒だけれど、その後ろには義憤がある。
ウルトラマンの怪獣ジャミラのように、悪役にされている怪獣側にもその理由や背景があるとしたら。
ストーリーの視点ひとつで、「被害者」が「加害者」に、「善」が「悪」に、書き換わる。
♢
正しいことをしようとする。
それ自体は間違っていないと思う。
けれど、正しいことだから通るはずだという思いはときに盲目的になりがちだ。違う意見をもつ相手にたいし、「私は正しいことをしようとしてるのに」と、まるで殉教者のように自分を捉えてしまっていないだろうか。
正しい、というのはある意味思考停止の考え方だ。
対立するものをすべて切り捨ててしまう。そして相手のポジションを、誤っている、邪な、間違ったことという箱に入れてしまう。
でも、対立する人たちには、その人たちなりの「正義」があるはずだ。
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そして。
世の中は、「正しい(と思う)」だけでは動かない。
相手の目線から将棋盤を見るひふみんアイのように、意見の異なるひとたちがなにを考えているのか、どうコミュニケーションをとったら響くのかを考え、話し合いをしていかなくてはいけない。
それは、「根回し」や「忖度」と呼ばれるものかもしれない。
けれど、それらは決して悪い意味でだけとらえられるべきではない。
むしろ、自分が信じるものを組織の中でつらぬいていくための、それは、戦略的な仲間づくり、同意者づくりの手段なのではないか。
ただ、正しいと自分の視点を訴えるだけではなく、いろんなひとの目線をふまえて、みんなが納得できる合意点を探していく。それが大事なんじゃないか。
ただ、正当性を訴えるだけじゃなくて。
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