見出し画像

一滴から始まる

あいにくのグレーの空そして雨が上がることのないまま、チャールズ三世はイギリス国王として戴冠を済ませた。5月6日、土曜日のことだ。

その翌日の日曜日。
月曜がお祝いで特別におやすみなので、2週連続の三連休を活かしふたたび遠出をたくらんだ。
先週末の旅はこれ。

いつも使う地下鉄に終点まで乗って行ってみたら、素敵な景色に出会うことができた。
そこはテムズ川が雄大に誇らしげにその旅を終え、海に流れ込むところ。
見渡すかぎりに水がたゆたい、青のグラデーションが広がるところ。

逆に、テムズ川ってどんなところから始まってるんだろう。
そんな疑問がふと頭をよぎった。

テムズ川の始まりは、コッツウォルズの真ん中にあった。

その名もRiver Thames water source(テムズ川水源)。
ロンドンの左にあるSouthend-on-Seaが先週行った河口。

テムズ川はイングランドの中で一番長い川で、全長は346キロ。
イギリスで一番長い川となると、ウェールズとイングランドを流れるセヴァーン川(River Severn)で全長354キロ。これはグレートブリテン島で一番長い川でもある。
ちなみに山梨県と埼玉県の県境にある笠取山を水源とする多摩川の全長は138キロなので、倍以上の長さ。

ゆえに、水源も結構遠い。
どうやって行こうか。

そして日曜日。薄曇りの朝6時。私はふたたび地元の地下鉄の駅にいた。
ただし今回はひとりではない。
ロンドン在住日本人の友達と、そしてお供のブロンプトン2台。

まずヴィクトリアのコーチステーション(バスターミナル)からでる長距離路線バスで、サイレンセスター(Cirencester)の町へ行き、そこからマイ自転車で水源へ向かう計画だ。

ヴィクトリアコーチステーション

実は、最初はサイレンセスターから路線バスで行こうと思っていたのだが、この路線、日曜日はバスが走っていない。
かといって最寄り駅のただ20-30分歩くだけというのもつまらない。
ほかの曜日にずらすのも気分じゃない。

ということで、マイ自転車で行くことを思いついた。

そして2時間半のバスの旅。

バスの窓から臨むバタシー橋とテムズ川。

国道A4号線からそのまま高速M4号線へ。
途中ヒースロー空港でたくさんの乗客を拾い、さらに西へと走っていく。
レディング(Reading)のあたりからすっかり左右は緑の海。
空はあいかわらず灰色だけれど、ときおり菜の花畑の黄色がバアッと視界を華やかに彩ってくれる。

高速M4号線からの菜の花畑。イギリスの典型的初夏の景色。

サイレンセスターの町はずれにある駐車場で、私たちはバスを降りた。

ヴィクトリアコーチステーションでは他に誰も荷物を預けなかったので、ど真ん中に置いたはずの自転車2台は、山のようなスーツケースの下に埋もれていた。
仕方ないので、運転手さんとおしゃべりし手伝いながらそれを引き出す。

「遠くまでいくのかい?」

アジア人の頼りなさそうな女の子が16インチ径タイヤの小さな折り畳み自転車でサイクリング、と彼の目には映ったのだろう。思いやりの気持ちのこもった「よい一日を」ということばと共にプシューっとバスは出発していった。
と、そのあと偶然、信号待ちでそのバスとすれ違った。するとその運転手さんはパッシングしてぶんぶん手を振ってくれた。
こちらも大きく手を振りかえす。
笑顔でスタートできる、幸先いいサイクリングツアーの始まりだ。

聖ジョン・バプティスト教会
ローマ人の後にやって来たサクソン人が礼拝所を建てた場所に、今ある教会が建て始められたのは1100年代といわれる。コッツウォルズ典型のはちみつ色の石が美しい。

サイレンセスターにも見どころはいっぱいあるようだけれど、私たちの目的は別にあるので、聖ジョン・バプティスト教会を外から眺めるだけにして、町を後にした。

背景の住宅もコッツウォルズストーン。

国道A433号線は、典型的イングランドの田舎国道。
つまり、あまり幅のないみちを40マイルの速度制限なんて無視した地元の車がガンガンと飛ばしていく道ということだ。

ここは気持ちを強くして、どんなに後ろで車がイライラしていようと、あちらが追い越しをしてくれるのを待ちながら自分の走れるペースでいかなくてはならない。
なぜかというと、路面がぼこぼこでポットホールと呼ばれる穴がアスファルトのそこら中にあり、小さなタイヤの折り畳み自転車には命とりだからだ。

グレーながらも、雨は降らず、気温は16℃でまさにサイクリングにはうってつけ。
びゅんびゅんと追い越していくレンジローバーやボルボを気にせず、草と菜の花の地平線を楽しみながら、2台の自転車がいく。

穏やかな風景にみえて、実はなかなか交通量が激しい

さすがにあのテムズの水源だし、近くまでいけば案内がでてるだろう。
そんな予想は大外れ。どこにも、何も兆候すらなかった。

いっかい路肩に寄せて、携帯を確認しまた国道の坂道を戻る。

どうやらグーグルがいう「ルート」とは私有地の農園のなかを通っていた。イギリスやアイルランドでナビを使うと、ときおりそんなことが起こる。あいにく農園の鉄門には「私有地。テムズ水源へのアクセスはぜったいにできません」ときっぱり書かれ入れなかった。

ということは。
その手前にあった、パブリックフットパス(Public Footpath)を自転車を押して歩くしかないということか。

パブリックフットパスとは、今ではハイキングトレイルのようにとらえられているけれど、実はとてもイギリスらしい歴史と法律にもとづく小径のこと。

イギリスでは、公衆(パブリック)が通路として必要とし昔から歩いてきた土地であれば、国有地や私有地かに関係なく「土地を通行する権利」が認められる。
もちろんすべての土地というわけではないのだが。

そもそも歴史的に、集落共同体は共有地(Common コモン)をもっていた。
これらコモンは今でも残っており、ロンドンではクラッパムコモン(Clapham Common)やウィンブルドンコモン(Wimbledon Common)などが知られている。
そして当然ながら、そこまで行く道は集落の人間であればだれ構わず通行することができた。

しかし18世紀後半に産業革命がはじまると、資本家たちは土地の囲い込みを始めた。これまであたりまえに通っていた道が突然通行禁止になる。民衆は囲い込みに反発し、撤回を求める運動が勃発。結果、19世紀には、かつて地域住民が通行していたことが証明された道はパブリックフットパスとして認め公衆が歩く権利をもつと確定された。
さらに1932年、「歩く権利法(Rights of Way Act)」が制定される。

1932年制定の「歩く権利」法。
もしも道が先にあったのならば、そのあとに農耕地やゴルフ場、軍事施設が建てられたとしても、公衆は歩く権利がある。
ゴルフ場の中にフットパスがある場合、歩行者が通り過ぎるのを待ってプレイするのが決まり。

フットパスはたいてい草が往来によって踏み分けられた道なき道で、歩行者専用。放牧地の草むらにあることが多いので羊や馬が逃げ出さないよう、ひっかけを外さないと開かない鉄柵や、高い階段をまたいだ木柵を越えるようになっていることが多い。
また歩行者だけでなく乗馬での通行が(そして今では自転車が)許されている道はブライドルウェイ(Bridle Way)と呼ばれる。

ということで、私たちは越えるのが難しい柵がその先にないことを祈りつつ、自転車を押してフットパスを行くことにした。

フットパスにはこんな看板がたいていある

20分ほどだろうか。歩いていったその先に「テムズ川の起点」を示す石碑と、石の山が見つかった。
どうやら、この石の山の下に地下水の水源があるらしい。
とはいえ、通常の水量では地表にあらわれることはほとんどないという。この日もすっかり乾燥して見えた。

あっさり。水の影も音もない。

だから、グーグルの「テムズ川水源」は少し離れた2箇所に表示されていたのか。

地表に水流が流れ出てくるポイントが、国道の反対側にあるもう一つの「水源」ということなのだろう。

ここでいったんランチ休憩するため、調べておいた近くのパブへ行くことにする。

ふたたび自転車を押し、柵を越え、国道に戻る。

その名もテムズヘッドイン。
まずはエールで一息ついて。

地元のエール、サンデーローストにアップルクランブルで栄養補給をしていると、窓から陽光が差し込んできた。
どうやら一日曇りという天気予報が外れてくれたようだ。

12時の開店とともに入ったパブも、2時前にもなるとすっかり地元の人たちで埋まって大賑わい。
よし、そろそろ出発しよう。

ふたたび国道を、ひとっこぎ。
そして、今度は反対側の地表にでてくる方の水源地点を目指し、フットパスに入って、自転車を押していく。

イギリスの緑は明るい。おひさまさえ照らしていれば。

国道から崖のような斜面をおり、さらに穏やかな下りを歩いていく。
土地がどんどん下がっていくということはそろそろかなと思い、踏み分け道を外れて草むらに入ると、やはり。
ずぶずぶとぬかるんだ草のしたに、染み出すように湿原部分ができている。

湿原状態のテムズのはじまり

さらに進むこと数分。せせらぎの音が聞こえてきた。

柵でかこわれていて近づけなかったが、しっかりと水音で存在がわかる。

わあ。
その先にはもう力強い水流がはっきり動いていて、下流側には川岸もできあがっていた。
そして、その水の透明度に息をのむ。

こぽこぽこぽというせせらぎの音、鳥の声、そして自分たちがあげる感嘆の声しかしない

これまでみた美しい水源という意味では、やはり南阿蘇の白川水源が一番だし、美しい水流という意味では、ノルウェーのガイランゲルフィヨルドだと思う。

思うけれども、うちの裏のテムズ川を、そしてビッグベンの横のテムズ川を、さらに北海に流れ込むテムズ川を知ったうえでみるこの穏やかな木陰と透き通った水には、全く違った意味で強い印象があった。

ここからあの川の水はやってきたのか。

帰路はグレートウェスタン鉄道で、特急電車に乗った。
最寄り駅ケンブル(Kemble)からたった4駅でパディントンに着く。
その便利さがなんだか不釣り合いなくらい、全く違うところにいたのに。

行きと帰りは違うルートにしたかったのであえて電車で。
水源はケンブル駅からだとあっという間。



道中車窓の左右には、蛇行するテムズ川が、どんどんとたくましく太くなりながら、ひとびとの生活の一部として流れていく様子がみてとれた。

ロンドンの家の蛇口をひねると出る水。
その水道管理会社の名前はテムズウォーター(Thames Water)。
あの裏の川の水が?なんて言っていたけれど、最初の水流をみた後では、その蛇口の水すらいとおしい。

すべては、一滴からはじまる。


いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。