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サドルの上からBonjour〜死闘編〜

はじめに

フランスには、パリ•ブレスト•パリ(PBP)という歴史的な自転車の長距離イベントがあります。パリ近郊のランブイエを出発し、大西洋に面したブレストまでの往復1200キロを制限時間内に走破する、4年に1度のサバイバルな大会です。私は前回の2019年、制限時間90時間(3日と18時間)の枠に初めて参加しましたが、コース上で交通事故に遭い、完走が叶いませんでした。

このエッセイは、今年8月に再度挑戦したPBPで、時間外ながらも完走を遂げた旅の記録です。前回2019年に執筆した「サドルの上からBonjour」(愛称•サドボン)の続編となります。前作のサドボンもnoteで読めます。

2023年PBPのコース
パリ近郊のランブイエから、大西洋に面したブレストを往復する1200キロを、相方と走った。

①ただいま!フランス

大草原のパノラマに飛び込むように、風を突っ切る。思わず「うわあー」と声を上げていた。大地に滑らせた、たった2つの輪の勢いそのままに、どこまでも行けそうな万能感が押し寄せる。これだ。ヨーロッパを駆ける醍醐味は。この身一つを原動力に、左右のペダルでリズムを踏み刻んでいく。

乾いた風を切って、果てへ

「永遠に走れそうな気がする!」。9年前、人生で初めてロードバイクに乗った記念すべき日にも、そんな無邪気な言葉を吐いた。忘れもしない。社会人になってママチャリにもろくに乗ったことがなかった当時は、時速15㌔程度しか出せなかった。それでも、私の心を確かにつかんだ解放感。そして、「限界を知りたい」という単純な好奇心。その2つの魅力が、私をいとも簡単に「ブルべ」と呼ばれる長距離ライドの沼へと落とした。

フランス北部の風景は穏やかで美しい。緩やかな勾配の大草原と放牧された牛たち、広大なトウモロコシ畑、石造りの家や教会が立ち並ぶ美しい町村が、代わる代わる目の前に広がっては過ぎ去る。子供のころ、胸を高鳴らせながら何度もめくった、ペローやグリム童話の絵本。ヨーロッパの暮らしや建築に初めて触れた、あの世界観がよみがえる。

朝霧の中、起き出す草原の牛たち
街のランドマークである教会は、
ずっと眺めていたいほど美しかった

昼夜を問わず走り続ける私たち参加者に、沿道の人々は日没を過ぎても手をたたき、「Allez!Allez!(行け、行け)」と励ましてくれた。コース上のすべての町が歓喜に満ち、自転車や国旗のオブジェで温かく迎えてくれた。彼らの声が、笑顔が、ひときわ私を奮い立たせたのは、前回と心持ちが違うからだろうか。

前回のPBPで、後方から来たトラックにひき逃げされて鎖骨など3カ所を折り、帰国後に手術を余儀なくされた私にとっては、全てマイナスからのスタートだった。走力アップを誓い、ブレない体と鋼のような脚を手に入れたくて、2年ほどジムにも通った。「練習は本番のように、本番は練習のように」。熱心に指導してくれたトレーナーの言葉を胸に、日本のどこを走る時もフランスの風景と重ね合わせた。

街の至る所に参加者を歓迎するオブジェ
今回は相方とチャレンジ

ただ、この4年の間に、世界は一変した。新型コロナウイルスが猛威を振るい、ロシアのウクライナ侵攻による戦闘が始まった。あらゆる交流や自由が閉ざされ、人類の命が大きく脅かされる負の局面にあって、待ちに待った「本番」のスタート地点に立てたこと自体が奇跡といっていい。フランスの乾いた風を浴びながら、ただ走れる喜びをかみしめていた。

②新たな相棒

「人馬一体」という言葉がある。まだ駆け出しの新聞記者だったころ、広島市に本社があるマツダの車づくりの哲学だと知り、非常に感銘を受けた。乗り手(運転手)と馬(自動車)が一つになったかのような、しなやかで巧みな走り、と表現したらいいだろうか。

自転車は20世紀最大の発明だと思う

私はメカに精通しないが、400㌔以上の長距離を走るようになってから、たびたびこの言葉を思い出した。ロードバイクは機材スポーツだ。動力が自分そのものだからこそ、この人馬一体をより深く体感できるのではないかと思った。そこで今回、私とフランスの大地を走ったのが、クロモリ素材でオーダーしたハンドメイドの自転車だ。クロモリ(クロムモリブデン鋼の略)とは鉄の一種で、弾性と衝撃吸収性に優れ、伸びやかに加速する特徴があると言われる。

一般的に、ロードバイクは「軽さが正義」であり、素材はクロモリより軽量なカーボンを使う。だが、趣味とはいえ異常な長距離を走る者としては、むしろ一定の重さがあるクロモリのほうが、走行安定性や平地の速度維持に有効ではないかと考えたのだ。さらに、ベテランのクロモリ使いがよく表現する「しなり」を感じる走りこそ、人馬一体の真の心地良さではないかと。

前回2019年のPBPは、フランスのLOOKというメーカーのカーボンフレームに乗っていた。「ルクヲ」と名付けたその愛車は、私とともにコース上で交通事故に遭ったが、幸いフレームは折れず、今も現役だ。だが、命がけの苦労を共にしたのに、あろうことか私の気持ちは浮ついた。

帰国後、鎖骨の手術で入院していた時である。相方が差し入れてくれたクロモリ特集の雑誌を見て、どうしてもオリジナルの1台が欲しくなってしまった。そして、歩けるようになるやいなや、その雑誌で紹介されていた比較的若手のフレームビルダーを訪ねた。滋賀県甲賀市で「macchi cycles(マッキサイクルズ)」を営む、植田真貴さんとの出会いだ。

既製品ではない唯一無二のフレームを作るのだから、作り手との意思疎通が全てだ。マッキさんは、PBPに対する私の思いや、いかに身体への負荷を抑えて長距離を走るかという課題について、丁寧に聞いてくれた。そのために機材がどうあるのが望ましいかは、ある意味、試行錯誤ではあったが、マッキさんは私自身の足らざるを補完してくれる美しいフレームを、柔軟な思考と高い技術でその手から生み出してくれた。

色は、初めから赤と決めていた。私の大好きな彼岸花、ワインのブドウ品種であるピノ・ノワールの深紅、そこにひとさじの情熱をブレンド…と粋な妄想を繰り広げた。オーダーする際はさすがに分かりにくいので、近い色味を調べると、奇しくもマツダ車の「ソウルレッドクリスタルメタリック」がそれであった。

スタート直前のランブイエで
石壁にもよく映える赤

2020年7月に晴れて納車。愛称は「マキヲ」に決めた。世は既に新型コロナウイルスの渦中だったが、マキヲは事故から再起した私の希望そのものだった。もう、彼には成功体験しか刻まない。初めて乗った日にそう誓い、走行距離を重ねて身体を慣らした。そして今夏、1200㌔もの長旅を共にしたことで、人馬一体の新境地を見たのである。国際舞台において、メイドインジャパンであることが、こんなに誇らしく思えたことはない。

③マリアージュ

フランス北部の町や村は、小高い丘の上にあった。境界がとてもはっきりしていて、隣町に行くときは、いったん丘を下り、また上るという具合だ。長距離を進むにつれてアップダウンが脚にこたえ、町に到着した時はだいたい苦悶の表情を浮かべていた。

どの町並みも似ていて、酔っ払うと帰る町を間違えるレベル

町中では、自然に寄り添う人々の心豊かな暮らしが垣間見えた。石造りの家の窓辺には、寄せ植えされた鮮やかな花々が揺れている。民家の脇にはこんもりと整えられたアジサイの植栽が、石壁によく映えていた。

日本では、地植えのアジサイは咲いた姿のまま、だらりと枯れていく印象が強い。梅雨が明け、いよいよ盛夏を迎えるタイミングでアジサイの朽ちた花を見ると鬱々とした気分になるものだ。だが、フランスで見たアジサイは、枯れゆく姿がドライフラワーのようで、芸術的でさえあった。乾燥気候だからだろうか。色彩だけが少しずつ抜けてセピア色のようになり、石壁と同調するかのようなマリアージュを織りなす。

アジサイとドアと垣根のブルーが、アートのように調和
壁に溶け込むように咲くアジサイ

マリアージュはフランス語で「結婚」という意味だが、ワインとチーズの、または肉料理とソースの相性の表現でもよく使われるように、絶妙な調和の概念を持つ。おそらく、それは大地の恩恵を受けながら、自然のごく一部として慎ましく生きてきたフランスの人々の精神性そのものではないか。例えば、窓枠やドアの色と植栽の花の色が違和感なくリンクするように、町中のあらゆる色彩からもマリアージュのセンスは感じ取れた。

民家の1階の窓に、手入れの行き届いた赤い花がのぞいているのを見て、思わず自転車と一緒に写真を撮ろうとしたら、高齢のマダムが玄関の扉を開けて出てきた。「お花も町も、なんて美しい」と褒めると、とてもにっこりして一緒に写真に収まってくれた。驚いたことに、マダムが着ていた洋服と花の色も、見事に調和していて素敵だった。

「1200㌔なんて想像がつかない。でも、走っていれば、きっとゴールが見えるわ」。マダムはそう言って、私の肩をさすってくれた。その赤色に負けない、とびきり華やかな笑顔で。

マダムルージュと呼ぼう

夜が明け、朝霧に包まれた町では、鳩が一定のリズムで繰り返し鳴いていた。ぼんやりした視界と、日本の田舎で聞こえるのと同じ鳩の鳴き声もまた、マリアージュだと思った。たいして深い思考もなく、鳩が鳴くリズムに合わせてペダルを踏んでみる。異国からのサイクリストたちもまた、自転車を文化として育んだフランスの懐に抱かれるように、その景色の一部となっていた。

④やっぱりブーランジュリー

朝を迎えるのが、とても待ち遠しかった。電灯も自販機の明かりもない、退屈な夜の闇から解放されるのに加えて、もう一つ。町中がパンの焼ける香りに包まれ、この上なく幸せな気持ちになれるからだ。空が白んでくると、ブーランジュリー(パン屋)がぽつぽつと開き、おそらく日課なのだろう、お年寄りがバゲットを買い求めに来た。きっと家の食卓には、バターとチーズとハムが三種の神器のように並んで、バゲットの帰りを待っているはずだ。

制限時間を意識すれば、カフェやレストランで悠長に食事をする余裕はなかった。PBPのコース上には、学校や体育館などの公共施設にコントロールと呼ばれるチェックポイントが設けられ、地元のボランティアが有料で食事や仮眠場所を提供している。私と相方は時間を節約するため、主にそこでパスタやクロワッサンを食べた。だが、種類はさほど多くない上に乾燥しがちで、真夏の環境ではなかなか喉を通らなかった。

走り続けるモチベーションを維持する意味でも、心から美味しいと思える食事に飢えていた。コンビニが皆無なフランスで、ブーランジュリーは私の心を相当に躍らせた。パンでいい。いや、むしろパンがいい。広島市中心部の本通り商店街で生まれた私は、母のお腹にいるうちから目と鼻の先にあったアンデルセン本店のパンで育った。DNAレベルでパンとの相性はいいのだ。

まるでサイクリストホイホイ
スイーツもかなり気になる

吸い込まれるように店に入り、買い占めてもいいくらい魅力的なショーケースの中を一通り見渡して、ブルターニュ地方のリンゴをふんだんにつかった「クランブル・ポム」と、定番の「パン・オ・レザン」に決めた。私の前にレジに並んだインド人の参加者が、お店の人にベジタリアン向きの商品はどれかと尋ねている。卵と乳製品はOKらしく、細かな注文が多い。一刻も早くパンにありつきたかった私は、会話に割って入り、半ば強引に野菜のキッシュをすすめてあげた。

道端に座って、焼き立てのパンをほおばった。バターの風味がコーヒーによく合う。そして、まだ続く道のりを考えた。クランブル・ポムは半分残して、自転車のリアバッグにしまった。心か胃袋がピンチになったら、また食べよう。甘酸っぱい余韻に浸る間もなく、そそくさとペダルを踏み込んだ。

割とビッグサイズなのが嬉しい

⑤太陽のせい

「太陽のせいだ」―。フランスのノーベル文学賞作家、カミュの代表作「異邦人」で、主人公が人を殺めた動機についてこう語る場面がある。いかにもフランスらしい「不条理文学」として知られる小説の一節が、なぜか私の頭の中をぐるぐる回り始めていた。

フランス北部は北海道より緯度が高く、夏でも夜は10℃を下回る地域がある。だが、今回は寒暖差よりも暑さが身にこたえた。最高気温は32、33℃ぐらい。だが、乾燥しているせいか太陽を間近に感じる。こめかみからじりじりと入り込むような容赦ない日差し。日陰のない平原の炎天下で、体力をただただ奪われ、夜になっても頭の中に熱がこもり続けた。

日差しをさえぎるものは皆無

「こんなに暑いPBPは過去にない」と地元の人たちも驚いていた。コース上で、彼らが善意で設けてくれる給水エイドを頼りに、私たちは頭から水をかぶり、ジャージを濡らして熱中症になるのを防いだ。かいがいしくボトルに水を注いでくれた女の子に御礼をと思い、補給食で持っていた「とらや」の羊羹をあげると、「これはどうやって作るの」と不思議そうにレシピを聞いてくる。フランスの夏休みに絵日記の宿題があるかどうか知らないが、もしあったなら、異文化との遭遇は格好のネタになっただろう。

平均時速や仮眠時間など、綿密に作成した走行計画は、400㌔を過ぎたあたりで既に破綻していた。こうした「想定外」は織り込み済みで、臨機応変に立て直していくのが普通だ。だが、安全に走り続ける体力を保持するためにはむしろ休憩や睡眠の回数を増やさねばならず、足を止めるたびに、完走までの残り時間は恐ろしいスピードで消費されていった。

牛も木陰に避難
コース上には、コンビニも自販機もない。
地元住民の私設エイドに救われた

さらに告白すると、私はフランスへの出発直前、流行り病の「アレ」に罹患していた。病院に行かなかったので断定できないが、続く高熱と咳の症状からして疑う余地はなかった。食欲不振で体重が急激に3㌔も落ちた身体を、さらに暑さがむしばんでいたのだった。

600㌔走った折り返し地点のブレストで、やっと大西洋が見えた。瀬戸内育ちにとっては、海が視界に入ると安堵する。あと半分だ。照りつける太陽の下で、思うようなペダリングができずに失速していく自分を奮い立たせた。決して、不条理なんかではなかった。どうしても、何が何でも完走したい。今思えば、このあたりから、先走る心と肉体は大きく乖離し始めていた。

ギラつく大西洋。こんな日は泳ぐのが正しい

⑥再会

1200㌔にわたる旅の道中で、私にはどうしても会いたい人がいた。4年前のPBPで、トラックにひき逃げされる事故に遭った時、偶然通りかかって助けてくれたフランス人のジャン・ピエール氏である。彼は救急車を呼んでくれただけでなく、救急車に載せられなかった私の自転車を自宅で預かり、後に日本へ発送してくれた恩人だ。当時、事故で鎖骨などを折り、動転していた私は満足な御礼を言うこともできないまま、病院に搬送されたのだった。

PBPへの参加が決まってすぐ、メールで連絡を取ると、彼は再挑戦を心から喜んでくれた。事故現場となったラ・タニエールの交差点のすぐ近くに住んでいたので、「タイミングが合えばぜひ会いましょう」という大雑把なオファーも受け入れてくれた。900㌔を過ぎた復路で、それは叶った。

マウンテンバイクに乗って現れた彼は、50歳ぐらいだろうか。「あなたが親切にしてくれたお陰で、再びチャレンジできた。本当にありがとう」。初めて直接、感謝の言葉を伝えると、「そんな特別なことをしたわけではないよ」と屈託なく笑った。

事故現場の交差点でジャン・ピエールに再会。
フランスのロードレース選手の名前を冠したバイクに乗っていた

事故の後、彼に送ってもらった私の自転車は、驚くほど丁寧に梱包されていた。全てのパーツがプチプチでくるまれ、強い衝撃に耐えられるよう段ボールで補強してあった。きっと自転車を大切にしている人に違いない。実際会ってみると、その確信どおり、彼は同じマウンテンバイクを20年愛用している自転車愛好家だった。「だから、梱包が完璧だったんだ」。そう告げると、「あなたはきっと、自分のことよりも自転車を心配すると思ったから」と明かしてくれて、ふいに涙がこぼれそうになった。

2019年の事故の後、ジャン・ピエールが梱包して送ってくれた私の自転車(2020年撮影)

もう夜だったが、彼は近隣の人たちが参加者向けに設けているエイドに私たちを案内し、娘と応援に来たアンソニーという男性を紹介してくれた。アンソニーは日本に興味があるようだったので、広島に住んでいることや、5月にG7サミットが開かれ、フランスのマクロン大統領が平和記念公園を訪れたことなどを話した。

フランス語の「マクロン」の発音が難しく、何度か言い直すと、なぜか2人が大笑いする。何が面白いのだろう。ぽかんとしていたら、ジャン・ピエールが「ちょっと発音を間違えただけで、大統領が魚になってしまうよ」と教えてくれた。どうやら、フランス語のサバ(鯖)が似た発音で「マクロ」というらしい。「サバ大統領」とでも聞こえたんだろうか。笑いのセンスが実にシュールである。

アンソニー(右)と娘のリザちゃん(手前)。
「マクロン」で大盛り上がり
エイドは遅くまで賑わっていた

昼間の暑さも、重なる疲労も、制限時間も、何もかも忘れて私たちはただ笑っていた。とはいえ、歩みを止めるわけにはいかない。別れ際、お土産にとフリーズドライの味噌汁を彼らに渡し、握手して「じゃあ」と手を振ったところで、サングラスがないことに気づいた。焦って周辺を探していると、ジャン・ピエールが最初に待ち合わせた交差点に落ちていたのを見つけて、拾ってきてくれた。つくづく、この人には迷惑を掛けっぱなしである。「ゴールまで安全にね」。彼の温かいエールを苦笑いで受け止め、町を後にした。

⑦限界

ジャン・ピエールとの再会を果たし、英気を養った私たちは、またしても長い夜を超えなければならなかった。太陽などないのに、昼間の暑さが、まるで残像のように身体の中でくすぶり続けている。強烈な睡魔と相まって、コンディションはかなり低下していた。

加えて、異常なまでの目の不調に襲われていた。サングラスを道端に落とした時、実は鼻当ての部分が壊れてしまっていた。相方が自分のサングラスと交換してくれて、目を保護することはできたが、今度は乾燥のせいか涙が止まらないのだ。まばたきするたびに、強烈な痛みとあふれる涙で目を普通に開けていられない。視界が保てない不安から、時速は10数キロにまで落ちた。過去の長距離ライドでは経験のない異常事態である。

せっかく積み上げてきたのに、こんなの自分じゃない。どうして―。

思わず口走りそうになって、こらえた。長旅に降りかかるトラブルに、「どうして」は禁物なのだ。体調不良にせよ、天候悪化やメカの不具合にせよ、発生した事実には冷静かつ適切に対応すること。そうでなければ、目指す場所にたどり着けないからだ。常に「想定外」はあるものとして、いかに乗り切るかがブルべの醍醐味でもある。

夜のコントロール(チェックポイント)

諦めるのは大嫌いだ。だが、意地で走ったとしても限界が見えていた。その逡巡を察した相方が提案した。

「最後まで楽しく走ろう」。

私はうなずいて約束した。「絶対にゴールまで完走する」ー。それは、90時間という制限時間に執着することを、2人の意志でやめた瞬間だった。言い換えれば、時間をオーバーしても安全にルートを走り切るという選択をした。

夜空を仰ぐと、無数の星がまたたいていた。泣いてなどいないのに、目にいっぱい溜まった涙のせいで、星たちの輝きはくしゃっとぼやけて、くっついて、もっと大きな光に見えた。これでいいんだ。唯一の希望に思えた。

身体の不調を改善するには、まず睡眠が必要だった。偶然見つけた、車の販売店だったと思われる建物の軒下が良さそうだったので、そのまま身を横たえて泥のように眠った。かすかな雨音で目を覚ました時は、もう明け方だった。私たちの後をついてきたのか、インド人の参加者2人も同じ場所で仮眠しており、「次のチェックポイントまで、一緒に連れて行ってほしい」と言う。

なかなか立派な寝床
相似形で眠るインド人

正直、他人に構う余裕はなかったので、目の不調を理由に断ると、インド人の1人が何やら自分の荷物をごそごそ探り始めた。「目薬なら持っている」ということらしい。だが、インドのお国事情はともかく、衛生上、他人の目薬など使うわけにいかない。これも丁重にお断りをさせてもらった。

私たちは霧雨の中、リスタートした。これ以上目に負担を掛けないよう、コンタクトレンズは思い切って外した。裸眼の視力は恐ろしく低い。こうなったら、相方に目の代わりになってもらい、すぐ後ろをついて走るしかない。どこからか、あの鳩の声がする。悲しげで一定のリズムを刻む鳴き声。それは、耳の奥で「どうして?」という禁断の問いかけとなって聞こえる。

私は自身の選択に、まだ納得し切れていなかった。

⑧最後の夕陽

明け方から降り出した雨は、走るうちに次第に強まった。もう、いっそ何もかも洗い流してほしい気分だった。暑さも、3日分の汗も、涙も。そして、制限時間にとらわれずに完走を目指す決断をしながら、それで良かったのかと自問し続ける私自身の煮え切らなさも。

顔に打ちつける雨粒は、まるで自分を叱咤しているようだった。本当に限界なのか。まだ頑張れるんじゃないのか。それでも走力は思うように振るわず、どう計算しても、制限時間の午後1時にゴールのランブイエにたどり着くことは不可能だった。実際、午後1時過ぎ、私たちはゴールからまだ約100キロ以上も手前の街にいた。その事実が全てだった。

自分の弱さは誰だって認めたくない。だが、まだゴールを見ないうちから悔しさがこみ上げた。あの時、睡眠時間をもっと削っていれば。並んでまでパンを買わなければ。暑さの中で、もっと心身を追い込めていれば。そもそも、出国前に「アレ」に罹患するなんて愚の骨頂だ。もっと体調管理できていたなら―。考えても仕方ないのに、いくつもの「たられば」で自分を責め上げずにはいられなかった。

それでもまだ終わってはいない。旅も最終盤を迎え、スタート時に減退していた食欲は、幸いにもすっかり復活した。フランスでは食べられない日本食が頭に浮かび、私たちはペダルを回しながら、うわ言のようにメニューを唱えた。そのひとつが広島名物、「キング軒」の汁なし担々麺だ。独自にブレンドされた花椒のシビれと複雑味で、今すぐ喝を入れたかった。もう一つは、瀬戸内海の倉橋島にある「お食事処 かず」のかつ丼。ライドで毎回立ち寄るお気に入りの店だ。あの分厚い豚肉の旨味と、絶妙な出汁でほっこりしたい。めくるめく妄想に浸りながら、残された力を振り絞った。

これが「かず」のカツ丼。当時、脳内のほとんどを日本食が占めていた(2023年12月撮影)

最後のチェックポイントとなるドルーに滑り込むと、もう片付けが始まっていた。時間は計測してもらえなくとも、通過したという公的な証だけは欲しい。ボランティアの男性に「Monsieur, s'il vous plaît.(ムッシュー、シルブプレ=すみません、お願いします)」と、上目遣いで懇願するという小技を駆使し、しまいかけたスタンプを再び引っ張り出させて、カードに押してもらった。残り40キロ。後はゴールするだけだ。

ムッシュー、シルブプレ!
日本食を想像しながらのサブウェイ

雨はとうに止み、雲も流れ去って、まさに陽が沈もうとしていた。大草原を染めるオレンジ色の光の中で、相方が言った。

「この夕陽を見られるのは、僕らの特権だよ」。

日没まで走ったからこそ、出会えた風景。制限時間内にゴールできなかったというネガティブな事実に、その言葉は魔法をかけた。日中の暑さに苦しみ、あれだけ忌み嫌った太陽なのに、なんと偉大で美しい刹那だろう。さようなら。そして、ありがとう。私たちは、走っていてとても楽しかった。胸を張ってそう言えた。

この瞬間を忘れない
最後の夕陽に包まれて。何故かゴール感満載な構図

⑨ランブイエの祝福

最後の夕陽を二人で見送ってからは、舞台の幕が下りるように夜がやってきた。コンタクトを外した私の目は昼間と比べるとほぼ見えておらず、相方のテールライトだけが頼りだった。そのせいか、残り20~30㌔が、とてつもなく長く感じられた。

裸眼で通る森の道は、漆黒のトンネルのようで、視覚からの情報はゼロに等しかった。人間とは不思議なもので、ひとつの感覚が欠けると、ほかの感覚が研ぎ澄まされていく。前を行く相方の走行音と、路面からハンドルに伝わる振動、そしてゴールへの嗅覚だけで道の形状をつかみ、ペダルを回していた。

4日前にスタートしたランブイエの街の明かりがぼんやり見えた。ここまで本当に遠かったー。感慨にふけっていると、ふいにハンドルを取られて悲鳴を上げた。ランブイエ城周辺の石畳に気付かず、いきなりデコボコの路面に乗り上げた勢いで両輪が跳ねたのだ。その懐かしい感触は、旅のゴールを告げていた。相方は、先回りして歓喜の瞬間を撮影してくれようとしたのだろう。いつの間にか速度を上げて、姿が見えなくなっていた。

鼻の奥がツンとして、涙がこぼれてきた。現地のボランティアの人たちが、手をたたいている。ゴールの受付を探し、「Où sont les contrôles ?(コントロールはどこですか)」と尋ねると、みんな笑顔で白いテントの方向を指さす。自転車を降り、押しながら近づくと、拍手の音がひときわ大きくなった。「Félicitations !(おめでとう)」。ボランティアの男性の一人が、よろめきながらたどり着いた私の肩を抱き、祝福してくれた。喜びと安堵と一抹の悔しさが交錯し、感極まった。

制限時間をオーバーしたので認定は逃したが、コース完走の証であるメダルを手にすることはできた。一瞬たりとも諦めないで良かった。たとえ不完全なゴールでも、それはずっしりと重かった。相方と共に1200㌔を無事に走り終えることは、今回最低限のミッションだったから、ご褒美といっていい。世界の平均気温は今年、観測史上最高を記録したそうだ。メダルの色は何色かと問われたら、迷わず「網膜に焼き付いた太陽の色」と答えるだろう。

私以上に感極まるボランティアの女性

ただ、全力は尽くしたものの、私自身と勝負しきれなかったもどかしさが、澱のように残っていた。メダルを首に掛けると、達成感に包まれるどころか、もっと貪欲になった。悪条件やトラブルを補って余りある走力や自己調整力を携えれば、もっと高い次元で私を超えられるに違いない。その感動を想像しながら、私は既に次の勝負を欲していた。

ひとつ超えると、ひとつ欲張りに

人は本来、もがくことで成長を自覚したい生き物なのだろう。その場面はさまざまだ。長距離のライドだったり、マラソンやトライアスロンだったり、スポーツでなくとも高難度の資格試験の勉強や、ビジネスの難局だってそうだ。私が今回感じた、「もがき足りなさ」にこそ、人としての「伸びしろ」があると信じたい。生き方が走り方であり、どう走るかはどう生きるかなのだ。

帰国後、興奮冷めやらぬうちに、ジャン・ピエールから一通のメールが届いた。「PBPを走る姿に、とても共感したよ。本当にありがとう。そして、おめでとう」。

その言葉は、ゴールまで遠回りし過ぎた私の心にそっと寄り添う、もう一つのメダルだった。

(サドルの上からBonjour~死闘編~ 終わり)


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