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1/4(ヨンブンノイチ):第一回

1/4。
25%オフ。
25%コストカット。

削減するにはまず手近な目標としては及第点なこの数値だが、ある男にとっては意味合いが違った。

1983年6月。
梅雨に入りたての湿気が多い時期、妊娠後期の安定した身とは言え、気分のさえない優子は我が子の誕生を今か今かと待ち望んでいた。
男の子の予定だ。
将来どんなことに興味を持ちどんな成長を見せるのか今から楽しみで仕方がない。来る日も来る日もモゾモゾと動く腹部に話しかけ誕生を待った。

一方、父親の諭も同じく世話しない毎日を過ごしていた。
バブル期初期で景気も良かったため、長く働くものが良い社員といった風潮の中で残業だらけのサラリーマン人生を謳歌していた。
同じように我が子の誕生を待ち望み、会社と自宅との往復に明け暮れていた。

6月6日、いよいよこの世に生を受けた子供は、当初名が無かった。顔を見てから決めると考えていたものの、生まれたての赤ん坊は総じてクシャクシャでいいイメージが出てこない。
3日3晩考えた挙句、「どんな境遇にも強い人間に育てたい」という意味で『勝人』と名付けられた。

母子ともに健康で、出産の入院も予定通りの5日で退院し、近所の優子の両親のもとで1か月ほど過ごすことになった。
祖父母となった優子の両親も、顔に筋肉が緩みに緩み、毎日相手をし続けた。

諭と言えば、子供ができても忙しい毎日が続き朝早く夜遅い生活が続いていたが、毎日子供の顔を拝見する日課だけは忘れずに過ごした。週休二日制の無かった時代、貴重な日曜日の休みの時間は全て子供に捧げるようにしている。


勝人の生後20日の事である。
いつものように授乳させ、寝かしつけていると突然青ざめ始めた。
みるみる血の気が引いていき、唇から爪の先まで真っ青な状態になっていく。母乳をのどに詰めたか、何か処置が悪かったのか、優子はとにかく焦りピクリとも泣かない我が子を看病を続ける。
見かねた祖父が、電話帳を引っ張り出してきて小児科を探す。幸い平日ということも有りどこでも連絡すれば何とか話ができるタイミングであったため、近所の小児科のページを見せて
「ほら!ここや!ここに電話しぃ!」
特に馴染みがあった小児科ではなかったが、何を感じたのか祖父が必死に訴えるため、指定された小児科に電話をかけてみることにした。
「すみません!子供が!なんか急に青ざめて・・・ハイ泣きません!爪の先まで紫で・・・」
一通り今起きていることをパニックになりながら伝え、すぐに病院に連れてくるように指示を受けた。

当時は車を運転するものが優子の妹しかおらず、あいにく当日は仕事で出ており不在だったため、道端でタクシーを拾い、優子と祖母で連れていく事にした。諭には祖父が連絡を入れ、連絡を受けた諭も抱えている仕事をすべて投げて帰路についた。

小児科についた途端、数人の看護師が取り囲み何だか今から大事になりそうな雰囲気を出しながら勝人が奥の方へ運ばれていった。処置中の赤いランプの元、原因が一切分からないまま、ただ不安だけが募る時間を過ごすことになった優子は、今にも折れそうな心を何とか気力で抑えている。
やがて遅れて諭が到着したが、処置中のランプは消えることなく既に3時間以上が経過していた。

生後これまでの育て方は間違っていなかった。きちんと授乳の記録もとっているし、飲んだ後の吐き戻しなどが無いかもチェックしていた。特段思い当たる節が無いために、考えを巡らせているうちに余計に滅入ってきた。
「まぁ、今は任せるしかないよ。」
そういったセリフを苦し紛れに出すことしかできなかった諭は、こんな時の父親の無力さを痛感する。

さらに時間が経過し、いよいよ頭が疲れてウトウトし始めたときだった。
処置中のランプが消えて、中から医師が出てきた。
マスクで顔が覆われているため、結果が良かったのか悪かったのか、表情をうかがい知ることはできない。
「ご両親ですか?」
「はい・・・あの勝人は・・・あの子はどんな・・・」
「一応の処置はしました。しかし、残念ながら長くはもたないと思います。詳しく説明するので奥の部屋までお越しください。」

―長くはもたないと思う―
その言葉だけですべての希望を失った気がした。
妊娠が判明して喜んだあの日。
つわりが辛くて毎日自暴自棄になった時期。
辛い時期が終わって今か今かと待ち望んだ時間。
そして、誕生から今まで過ごしてきた20日間。

全てが夢だったのか。
両親の背中に暗い影を落としたまま、薄暗い廊下を歩き、奥の部屋まで歩いて行った。


→第二回へ続く

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