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カナダ逃亡記#7:アルゴンキンに見た人生

<カナダ逃亡記#1>はここから

カナダの思いでに「アルゴンキン州立公園」

アメリカにも無事仕事が見つかったし、もうカナダには帰ってこないかもしれない。ということで9月の始め、子供達の思い出に「カナダの本当の自然」を見せてあげようと、アルゴンキン州立公園(Algonquin Provincial Park)に行った。

アルゴンキン州立公園とは、トロントの北、200キロほどにあるカナダで最も古い州立公園だ。大小様々な無数の湖が広大な土地に広がり、世界中から観光客を集める。「ポーテージ」といって、カヌーを担いで湖から湖へ渡り歩くのが有名だ。

たいして下調べもしなかった。どこかでカヌーをかりて、適当に湖に入って、さっくり中の島にテントでもはって、くらいの軽い気持ちで北を目指した。

外国(まあ北米)に行ってよく感じることだけど、地図の感覚が日本人とは違う。距離感が違う。地図を見てだいたいこれくらいの距離かな?と車を走らせると、実際にはとんでもない距離だったりする。そして場所を知らせる看板などは、そこが重要な地点にも関わらず、すごーく小さな看板だったりする。州立公園などにいたっては、とってもいい加減な地図になっている。

レンタカーの上にカナディアン・カヌー(現地では単にカヌーとよぶ)を積んで、なんとか目的地の湖に到着した。大きな湖で、ずっと行った先に小さな島がある。そこに設置されたキャンプサイト地で一泊する予定だった。

カナディアン・カヌー、恐怖の記憶

車からカヌーを降ろし、水に浮かべた時に初めて「そういえば、カヌーに最後に乗ったのは20年も前のことだ」と思い出した。

その時は今回と同じサイズのカナディアン・カヌーで、12月の相模川をくだっていた。午後4時頃だったか、バーベキューを楽しんだ後、カヌーに乗ろうということで、流れは速くないが水は十分に深い川の中頃まで漕ぎついた。僕はみんなを脅かしてやろうと思い、ふざけて船をゆらした。それが原因で船は転覆し、僕を含む乗員3名は冬の相模川に頭までどっぷりつかることになってしまった。服を着たまま全身濡れる恐怖。心臓が止まるかと思うほどの冷たい水。

その時の恐怖を思い出す。妻もカヌーに乗るのは初めてとのこと。子供3人も、もちろん初めて。もしここで転覆するようなことがあれば、命を危険にさらすような事になるかもしれない。いや、なる。絶対にふざけるのはやめよう。

乗り込む時には特に緊張した。先頭には妻と1才の次男。7才の長女、5才の長男をはさんで後ろに僕が乗った。これは通常3人乗りのカヌーだ。5人も乗ると、あきらかに船が沈む。さらにキャンプの道具(テント、寝袋、食料、食器など)を積んでいるので、実際に水面からカヌーのエッジまでの高さは8cmくらいだったと思う。要は「ギリギリ」だったのだ。

さあ乗れ!


Nanook of the North

船着き場を出る。波はほとんどなく、天気もよく、景色も最高!子供たちは大喜びで、親のほうも「来てよかったね」となごむ。

途中、同じようなカヌー上の人々に手で挨拶をする。向こうから見ると自分たちはどういう風に見えるのかな?前に乳飲み子を抱えた母(実際に妻はカヌーをこぎながら下の子に母乳を与えていた)、こども二人をはさんで父が後ろにいる。これってまんまイヌイット(エスキモー)みたいだよな。「極北のナヌーク」というイヌイットの生活を描いた映画(1922年)の中で、岸についたナヌーク一家のカヌーから次々と子供が出てくるシーンがあった。カヌーが生活の一部になっている人々だ。アルゴンキンにもカヌーに乗る家族らしき人々はいたが、ウチのようにガチで一艘のカヌーに一家ごと乗船!みたいな人は見かけなかった。

しばらく漕いでいくと、水流をはっきり見ることができた。水面が波だっている。遠くにある水面は穏やかだが、自分のいるこの水面は荒々しく波立っている。漕げども漕げども、先に進まない。舟先に座る妻も、子供に乳を飲ませているので、思うようにこげない。その内、風がつよくなり、さらに漕ぐことが困難になる。オールを持つ腕はもうパンパンにふくれあがっている。

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湖のはずなのに結構な速さで水は流れている

そしてついに雨が降ってきた。これが激しい雨だ!さっきまでの穏やかな晴れ間はどこに行ってしまったのか?だまされたような気までしてきた。
カヌー漕ぎ、楽あれば苦あり。気持ちは環境によって180度変化していく。「これって(俺たちの)人生みたいだよな」、そうひとりごちた。

そして上陸

妻はもくもくと前を見て漕いでいる。僕は後ろであれこれ考えながら、最善の道に舵を切ろうとしている。家庭の運営において、いつも推進力があるのは妻のほうだ。僕は、なんとなく後ろであれこれ考えながら、遅い舵を切っている。途中、妻には見えないだろうと思って、漕ぐのをさぼったりしている。

波にのり、波に流され、どれくらい漕いだだろうか、日も暮れかかった頃、僕らはようやく目的の島に着くことができた。看板が立っているわけではない。水上から地形を読んで、多分これだろう、と判断した。自然の中においては、この判断力は重要だ。

全員ビショビショに濡れている。9月といってもカナダである。夜になれば、温度は一桁まで下がる。
急いでテントを張る。陽が完全に沈む前に、火を起こして何かたべなくては。

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最後にこの島に人が来たのはいつのことだろう 名もなき島

そして陽は沈んだ。あたりは漆黒の闇だ。遠くの水面に鳥が鳴くのが聞こえる。いや、あれはコヨーテの鳴き声か?
周りには僕ら以外、誰もいない。闇に耳をすますと、時折、ポキンと枝をおるような音が聞こえる。

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アルゴンキンの日没 冬はきっと凍っているのだろう

キャンピング それは生きていることの実感

懐中電灯を頭上から照らして、持ってきたチキンを焼く。テントのすぐ横にグリルを作っているのは、とにかく、家族からはなれない為だ。そばにいないと、森の闇の何かにつれていかれそうな場所だ。
もうすっかり気温も下がり、「こんなの絶対着ないでしょ?」と言いながらもってきたThe North Faceの分厚いダウンジャケットを、今は着ている。

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靴の中までぬれていて 焚火で放心状態になっている

家族はもうみんなテントの中で寝ている。こんな厳しい自然の中では、星の観察などしている余裕はない。暗くなったら寝る、というあたりまえの選択だった。

しばらくの間、火を見つめていた。僕は火をみつめている時間が好きだ。色々な事に思いをはせる。こんな場所では、普段僕が考えているようなヨコシマな空想は産まれてこない。明日朝、何を喰うか、どう無事に出発地に戻ることができるか、さっきの音はなんだ?…生きぬくために必要な事柄だけが最優先で思い浮かぶ。キャンプに来るということは、生きている実感をする行為なのかもしれない。

当初の想像とは随分違う結果であったが、アルゴンキンに行ったことは、とても良い経験だった。「また行きたいか?」と聞かれると、はたしてあの思いをもう一度したいか自分では判らないけれど、それでも人には薦めたい。

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カナダの天候は変わりやすい それもまた人生のようだ

カナダ逃亡記#8>へつづく

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