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美食を倫理的に救う話

フォアグラ作る際の過程とか、畜産とかは結構批判されたりしますよね。たとえば、強制的にガチョウに餌を与えるのは動物虐待だ!みたいな。
そこで、今回はどうやったらそういう批判をかわせるのかを検討してみたいと思います。

今回は美食を芸術作品であると定義したうえで、芸術作品の美学的価値と倫理的評価は同じではないという主張する方向性でいきます。

したがって、二つのことを証明する必要がありますね。①美食は芸術作品である。②芸術作品の倫理的価値はその美学的価値になんら影響を与えないということです。

最初に②についてです。
このことを示すためには、哲学的には自律主義(autonomism)という立場に立つといいかもしれません。

自律主義とは以下のような立場です。つまり、芸術作品の道徳的価値は、その美的価値とは無関係であるというものです。

たとえば、ある人を搾取したり、ある人を非倫理的に扱ったりした上で完成した作品でも、その作品の美的価値にその背景は影響を与えないという立場です。

この立場を採用することの利点としては、たとえばフォアグラがどんなに非人道的にな仕方でつくられたとしても、フォアグラのソテーなどの料理としての価値は無傷ということになるからです。

①についてはどうでしょう。
つまり、料理は芸術作品といえるのでしょうか?

哲学者のカントは『判断力批判』において、美的判断について論じています。
カントによると美的判断は論理的なものではなく、主観的な快/不快を基礎としています。

簡単にいうと、美しいものをみると心地いいよね、みたいな感じですね。

このような美に関する概念は、美しいという判断や、崇高という判断に限定されません。カントはさらに快適な(agreeable)ものという判断を含めています。

快適なというのは、たとえばある食べ物を舐めたときの感覚的な快のことです(実際にカントはワインの味の快適さについて言及しています)。

さて、このようなことをふまえるとすると、味というのはそれが素晴らしかった場合、快を感じることができます。
そのような快は美的価値を持っています。
したがって、料理というのは美的価値を持った芸術であると結論づけられます。

ただ美的価値を持つものなら、あらゆる道徳的不正さが正当化されるみたいなところまではいえないので、その辺は難しいかもしれませんね。

カント先生の限界っす。

今回はこの論文を参考にしました。

Liao, Shen-yi and Meskin, Aaron, 2018: “Morality and Aesthetics of Food”, in The Oxford Handbook on Food Ethics, Barnhill et al. ed., pp. 658-679.

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