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シラケつつノリ、ノリつつシラケる

自分の好きな言葉に「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という言葉がある。
この言葉は浅田彰氏の構造と力という書籍の中に出てくるフレーズである。自分はこの言葉に、千葉雅也氏のnoteを読んでいるときに出会った。
千葉雅也氏は、努力についてのエッセイで自分の頑張りを俯瞰してとらえることの大切さとして引用していた。
シラケつつノリ、ノリつつシラケる:何かに没入する熱意がありながら、同時に、泥沼にならないよう自己観察しているメタ意識も持っている。
留学中、自分はこのフレーズのとらえ方を現在所属しているコミュニティに対する接し方の心得として、大切な心構えだと感じた。
自分を含め、人間は基本的に現在所属しているコミュニティにノリすぎることで自分のことを不必要に苦しめているのではないかと感じた。そこでコミュニティ全体を俯瞰し、そのコミュニティを絶対視しないという視線を持つことでより、現実的に問題を解決できると考える。
たとえば陽キャや陰キャという言葉がある、この言葉は活発な性格の人と内向的な性格の人を表す言葉である、しかしこの陽キャ、陰キャという、設定はある種絶対的なものではなくて、ひとたびコミュニティが変わってしまえば、立場が逆になる可能性を大いに秘めた脆弱な評価である。このことはコミュニティ内の評価全体にいうことができる。基本的にあるコミュニティ内での評価や立ち位置が自分の思いどおりでなかったり自分の優位性が損なわれていると感じても、決してそれがすべてにおいて人として下された判断ではなく、コミュニティを変えれば評価全体を変えることができるチャンスがあるということだ。ここでサルトルの実存主義の考えを参照してみよう、「実存は本質に先立つ」ここでいう実存というのは、実際に人が起こす行動などであり変更可能性を含まれているものと捉える、そして次に本質とは、あらかじめ決められているものというニュアンスを表す。例えば、ナイフは物を切るために生まれ、椅子は座られるために生まれる、しかし人間は、本質的なそのような設定が存在しておらず何も本質的な存在意義が規定されていないのである。ここでサルトルは、決定主義的な考えを批判し、人間の存在は人間の行動によって規定されるという実存主義を説いた。
この考えから自分は、人間の評価に絶対的なものはなく、たとえ一時的に不当な評価を下されたとしても、将来的な変更可能性は大いにあると考える。
そのため不当な評価を下されているときにやるべきことは、それに苦しむことでなく。将来的な異なるコミュニティでの評価を蹴ってする変数(自分の実力)をひたすら高めることであると考える。
なので、あるコミュニティに属しているときは「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という観点が大切になってくる。


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