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読売日本交響楽団 第559回定期演奏会 ~その豊饒な音楽の、力みなぎる和声を~

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会
2016年6月24日(金) 19:00 サントリーホール 指 揮:シルヴァン・カンブルラン
チェロ:ジャン=ギアン・ケラス
ベルリオーズ:序曲《宗教裁判官》
デュティユー:チェロ協奏曲〈遥かなる遠い世界〉
ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調〔第3稿〕

最初に正直な告白をしておくと、これまで何度か実演で聴いた読響の演奏とは「相性」良くなく、在京オケのなかでも実演で聴いた回数は少ない方。

私がクラシック音楽のコンサートに足を運ぶようになった頃、このオケの常任はゲルト・アルブレヒトでした。その次がスクロヴァチェフスキ、そして現在のカンブルランと続きます。アルブレヒトにも、実はスクロヴァチェフスキにもあんまり食指が動かなかったので聴いた回数が少ないのも当たり前かな?…といったところ。

では前回、何を聴きにいったのか? 頭を捻って思い出したのですが、確実に足を運んだのは2006年にカンブルランが指揮したメシアンのトゥランガリーラ交響曲。2014年にも演奏していますが、私が聴いたのは2006年なので、なんと10年前(当時、大学1年生!?)。その時は、トゥランガリーラ交響曲を実演で聴けたという満足感だけで充分でした。

さて今回は、デュティユーのチェロ協奏曲を実演で聴きたく足を運んだわけですが、チェリストがジャン=ギアン・ケラスだったことも大きな理由のひとつです。直前に席を確保したため、S席(2Fセンターの前の方)で鑑賞。ちなみに2列前には、著名な音楽学者や、音楽ライターの方がいらっしゃいました。

1)ベルリオーズ:序曲《宗教裁判官》

 幻想交響曲の4年前に書かれた作品。現在演奏されているベルリオーズ作品の中では最古の部類に入ります。

 いきなり結論をいえば、ブルックナーが終わった時点で21時を10分ほど過ぎていたことを思えば、プログラミングの意図が合ったとしても、そこまでして演奏する意味のある楽曲だったのか、更にいえばわざわざ取り上げたことに見合う演奏だったかといえば「?」(…というわけで察してください)。兎にも角にも、ベルリオーズが最初っから管弦楽法の名手ではなかったことがよく分かると共に、ベルリオーズの不器用さが前面に表れている作品でございました。

2)デュティユー:チェロ協奏曲『遥かなる遠い世界』

 本作は20世紀後半に作曲されたチェロ協奏曲のなかでは、指折りの名作のひとつなのは間違いない。YouTubeで検索すると思いの外、様々な演奏を聴く事ができる(…とはいえ、演奏頻度でいえばショスタコが頭一つ抜けているのだろうけども)。

 今回のソリストは、作曲者本人の監修での演奏経験もあるケラス(余談ですが、今回の来日公演一覧をみると9日間で、驚くほど多種多様な演目を取り上げていることに驚かされます http://earts.jp/archives/444/ )。暗譜ではありませんでしたが、弾き慣れていることは充分すぎるほど伝わってきました。

 非常に月並みな表現で恐縮ですが、やはり彼の演奏は美しい音色と知的な節度ある表現が印象的。ソロのパッセージが、オーケストラパートに波及したり、逆にオーケストラからソロへと受け継いでゆく部分などの解きほぐし方はとりわけ見事なもの。ただアンサンブルとしては絶妙でも、強烈な個を聴かせるという点では不満も残りました。それは単なる音量の問題だけではなく、緩徐楽章では音楽の推進力を充分に作り出せていなかったのが痛恨だったと言わざるを得ません。

 指揮のカンブルランについても大きな不満があります。例えば同じく緩徐楽章である第2楽章で繰り返し登場しながら変化していくハーモニーは、確かに複雑ではあるのですが、第1楽章のクラスターに近いハーモニーに比べると、明確に和声進行に緊張と緩和の力学が発生しています。それにもかかわらず、サウンドこそ気をつけられていたとはいえ、非常に「ベタ」っとした伴奏になってしまっていたことはケラス自身の推進力の無さと相まって、音楽が停滞する原因となりました。カンブルランは、複雑なものを「明快」に聴かせてはくれますが、「明解」にときほぐしていたとまでは言えないでしょう。

 最後にもうひとつだけ具体例を挙げると、全曲のラストで、ディミヌエンドこそしていくものの、音価が短くなっていくことでキリリと引き締まった見事なエンディングを演出するくだりも、うまく緊張感を作れなかったように思います。その前の盛り上がりも中途半端だったことも相まって、終楽章が尻すぼみとなってしまったのは本当に残念。…とはいえ、こんだけ色々と指摘した上で何ですが、充分聴きに行った価値があったのは間違いないです(説得力なし!)。

3)ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調〔予告では第2稿→第3稿に変更〕

 大雑把に分類すれば、最近だとパーヴォ・ヤルヴィがやっているような贅肉の少ない「ガリマッチョ」系ブルックナー。Twitterなどで検索すると、絶賛の声多数のようですが、もともとブルックナーについて第4番さえ、それほど良い作品だと思えない私としては、そもそも第3番は色々演奏上の解釈でフォローしてもらえないと聴いていてシンドイ作品(今回聴いて、ブルックナーは当分のところ第5番以降だけでいいやと思ってしまったです、はい)。

 演奏以前に作品自体への不満を並べだすと、それだけで相当な文量を必要とするので割愛(簡潔にいえば、例えば第1楽章で、頭で理解する音楽の流れと、感覚に訴えかける音楽の流れが一致しないことを、出来が悪いと感じてしまう)。言うまでもなく、ヨッフムのように緩急自在だったり、チェリビダッケのように悠然としているべきだと必ずしも思わないのですが、改訂されても尚(むしろ、この曲の場合は改訂されてるからこそか…)ウィークポイントが目立つ作品は「ガリマッチョ」タイプで演奏すると、いびつな骨格ばかり目についてしまう。新奇さや新鮮さを感じる向きもあるやもしれないが、骨格があまりにいびつやしませんか? 当初の予定通り第2稿、あるいは第1稿を選んでいれば、また印象も大きく異なったかもしれません。少なくとも第3稿の良さが引き出された演奏とは、私には思えませんでした。

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