映画『オッペンハイマー』ネタバレ感想 原爆とアメリカのジャイアニズムが怖すぎる
クリストファー・ノーランの映画『オッペンハイマー』をIMAXで鑑賞! キリアン・マーフィーやロバート・ダウニー・Jrの繊細かつ複雑な演技、原爆実験の轟音や緊張感などなど、映画としては本当に素晴らしかった。
しかし原爆を落とされた日本を一切描かないのはある面で致命的だと思った。原爆に対するアメリカの壮大なエクスキューズやエゴを感じる。
トリニティ実験など原爆の怖さも際立っていたが、よく考えるとアメリカのジャイアニズム自体が1番怖かった。
「オッペンハイマーの1人称映画だから日本が描かれないのも順当!」という意見が多いので、その反論を書いておく。
『オッペンハイマー』が日本を描かないことで1番安心するのはアメリカ
結論から書くと「原爆被害を直接的に描かなかったこと」というより、「日本の存在がほぼ完全に排除されていることが問題」だと考える。
「日本を描かないことで面白くなっているからいいじゃないか」と言われれば、それはまた別の側面ではそうなのだろう。
ただ個人的には日本を描かないことに過剰になっていたように感じた。
核開発の倫理的な責任や葛藤が問われる映画で、被爆側の存在を完全に蚊帳の外にすること自体が大きな問題で、その欠落と除外は「こういう映画だから」で片付けられる話なのだろうか?
「原爆投下の倫理や葛藤の映画にも関わらず、日本の存在感はゼロです!」それマイクロアグレッション的だと思うのだが。
日本の扱いが不当だったのではなく存在自体が欠落しているので、「日本が描かれない問題」が見えにくくなっている気もする。
映画『オッペンハイマー』が日本を描かなかったことで、1番安心したのはアメリカ国民だろう。核の加害国の罪悪感を感じずに済むからだ。
原爆が生まれた過程をリアルに描いた本作は、今後の核抑止の一助になるというより、日本の存在感ゼロでリアルに描くことで逆に原爆投下の事実に対して米国側が言い訳をしている印象を受けた。
映画『オッペンハイマー』はアメリカの罪の意識を多少なりとも軽くしたのではないか?
原爆被害を言語化で済ませる『オッペンハイマー』
公開前にネット記事で「日本側の被害を描いていない」ことが問題になっているのを見て、私は「別に映画だから問題ないのでは?」と思っていた。実際に作品を見るまでは。
『オッペンハイマー』は完成度が高すぎた。それゆえ、世界に原爆についての新たな見方を与える力を持っている。
海外の人が視聴したなら、原爆の製造と投下の知識は『オッペンハイマー』で書き換えられるだろう。しかし、そこに日本はいない。
日本は一瞬も映らない。死者数や被害状況が言語化されるだけである。
広島・長崎の直接的な被害が描かれないから問題というより、あまりに蚊帳の外すぎるのが問題だ。
原爆の問題に日本は関与してないのである。
被害国日本不在の原爆議論は、世界をよい方向に導けるのだろうか?
映画内でオッペンハイマーは自国で原爆が使われたらどうなるかの悲惨なビジョンは見ていた。それでも日本は映らない。
「日本の直接的な被害が描かれていない」というより、アメリカ側だけ描かれたことで、「日本での実際の被害が“アメリカ国内で語られた数字”に成り下がった」ことが良くないと思う。
広島・長崎の実際の被害と、アメリカでの数字による議論が同じ天秤にかけられてしまっている。
オッペンハイマーの一人称視点は言い訳では?
「オッペンハイマーの一人称視点の映画で、彼は原爆投下の被害を見てないから描く必要ない」という人が多い。
しかしオッペンハイマーが想像した場面として見せることはできる。
また、ストローズを中心に描かれた白黒シーンなどオッペンハイマー以外が主軸になっている箇所もあるので、「一人称だから描けない」というのは理由としては弱い。
オッペンハイマーの想像か、もしくは他の人物の視点でチラッと写真でも見せれば原爆の惨状に向き合うこともできたはずだ。
被害状況を映像化しなくても、セリフなどで伝えることもできた。
原爆の知識がない海外の人が本作を見ても「原爆を喰らったら一瞬にして消し炭なって死ぬんだ」ということしかわからないのでは?
放射能の恐怖や被爆後の地獄絵図はまったくわからないだろう。
一人称視点でも日本について入れ込むことができたのにやらなかった。原爆の父・オッペンハイマーとアメリカの内省の物語で日本が占めるウエイトはゼロだった…ということになる。
原爆の製造や決定の問題点は描かれていたが、ではこの映画が核抑止に繋がるのかというと疑問だ。
科学発展の不可避、人間のシステムエラーは避けられない諦めの視線を感じた。
原爆の怖さは十分伝わるが、反核・核抑止というよりは「核がある世界に生きる諦め」みたいな印象の不思議な作品だった。
アメリカのジャイアニズム
安易に例えるのが適切かはわからないが、『オッペンハイマー』はジャイアンが全校生徒の前で「俺はアイツを殴ってしまった…」とその経緯と反省をスピーチし、その内省や心理描写が非常に巧みだったので教師や生徒から激賞を浴びる→しかし殴られたのび太には一切スポットが当たらない…そんな構図に似ている。
ジャイアンは更生するだろうか? 味をしめてまたのび太をぶん殴る気がする。
また、黒人の奴隷問題や差別に関しての議論がなされる映画で、黒人が少しも出なかったらおそらく大きな問題になるだろう。
「日本を描かないことで映画が面白くなった!」と思っているならともかく、「日本を描かないことで原爆開発や倫理への理解が深まる面がある」と思っているなら、黒人問題でもナチスの問題でもなんでもいいから他の問題に喩えて考えてみた方がよいだろう。
加害者と被害者がいる問題で、加害側だけしか描かないのは非常に不自然で、その選択自体が「道徳的にどうなの?」という批判に晒される事になるはずだ。
原爆批判はすれどアメリカ批判は回避
『オッペンハイマー』が米国ジャイアニズムの不自然さを俯瞰する作品だったかについては疑問が残る。
オッペンハイマー博士の“あえて見ようとしない態度に悪魔が宿っている”ところまで伝えようとしていたのか?
オッペンハイマーが原爆被害の写真から目を逸らし、直視から逃げたような印象的なシーンがあった。すべてから目を逸らし続けた男の愚かさを描いているのは確かだが、それがメインテーマかと言えば違う。(違うというか、原爆の恐ろしさ、人間が集まって最悪の決定をする過程など、大きなテーマが他にもある)
オッペンハイマーや米国の愚かさ、人類の愚かさだけがメインのテーマであれば日本側が描かれない欠落も妥当かもしれない。
逆にそんなシンプルじゃない映画、単一のメッセージで収まりきらない複雑な作品だからこそ、「何も日本の存在を完全排除しなくてよかったのでは?」という疑問が残る。一瞬でも日本側を描けなかったのか?オッペンハイマーの想像で一瞬だけ日本の被害が映るとかもアリだったのでは?
それが難しいならセリフで被爆の実情を伝えることもできた。
NHKではノーラン監督が核の脅威が大きなテーマの1つだと語っているが、それなら被爆した日本の存在感を少しは強めたほうがよかったと思う↓
日本を完全排除したのは映画の完成度にとって必要だっただけでなく、1番のマーケットであるアメリカの人々に配慮した面もあったのでは?
オッペンハイマーの一人称にしたいだけでなく、罪の意識を呼び起こすようなドギツイ内容にはしたくない意図もあったのだろう。
実際この完成度で日本の惨状をさらっとでも伝えていたなら、アメリカの人々にとって心理的な負担が強すぎてとても視聴できない内容になっていたと思う。
もしかするとノーラン監督は日本の被害までリアルに知らせたいと思ったかもしれないが、出資者たちがNoと言ったのかもしれない。
まとめ
記事の内容をまとめ↓
日本の直接的な被害を描かないことより、存在すらを消し去ったことが問題
核の漠然とした脅威は伝わるが、放射能の恐怖などは伝わらない
一人称視点でも日本について入れ込むことは可能、アメリカのマーケットのために回避したのでは?
日本人も見たほうがいいことは確か。日本と欧米の原爆への認識の違いを学べる。落とした方は落とされた方より気にしていないのかもしれない。
映画は人間の認識を変えることができると私は思う。それゆえデリケートな内容を扱う場合は責任が発生する。
肯定派も否定派も、映画『オッペンハイマー』が日本を描くことを回避した事実については考えるべきではないだろうか。
『オッペンハイマー』レビュー終わり
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