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映画に多様な解釈は必要ない!そんなわけないから…

映画の考察ブログやYoutubeをやっていると、私の解釈に対して「曲解だ」と言ってくる人が結構いる。

裏を返せば、「1つの絶対的な映画の解釈があり、それ以外は視聴者の想像にすぎない」と考えている人だ。

とりあえずここでは、“ひとつの解釈信者”と呼ぼう。

ひとつの解釈信者は多様な解釈ができる作品があることを知らないのだろうか。

相当な根拠があるならともかく、なぜ曲解かしっかり説明もできず、ストーリーに対して正解が1個しかないと考えるのは流石に見方が狭すぎると思う。

さらにそういう人が大多数だと、映画の感想や考察を話し合ってその映画をより深く好きになるという、私が大切にしている映画と対話と広がりがなくなってしまうので反論を書いておく。


作り手がすべてを把握するのは不可能

まず1つの正しいと考える解釈があったとして、それが絶対的に正しいという証明は不可能だ。

ひとつの解釈信者は「監督がインタビューで答えたことが本質だ」と答えるかもしれないが、監督や脚本家へのリスペクトは別にして、作り手が全てを完璧に把握しコントロールしているというのは幻想でしかないと思う。

さらに様々な監督のインタビューで「観た人がそれぞれ色んな思いを抱えてくれたら嬉しい」的なものが多くある。監督自身が1つの正解を求めていない作品もたくさんあるのだ。

ひとつの解釈が正しい説は、1970年代かそれ以前に疑問符を提示されている。しかし現在でも幅を利かせているもっともらしい固定観念だ。

例えばフランスの批評家ロラン・バルトが唱えた概念「作者の死」(1967)など、作り手の解釈が全てではないという説はいくつもある。

もちろん制作に寄り添って作り手の意図を尊重する解釈も大切だ。

しかしそれと同時に個々の視聴者のユニークな解釈も尊重すべきだし、それらが融合して映画が時代とつながり、普遍的なメッセージを共有できることもあるだろう。

映画は抽象的な見方ができる

映画は表面上のストーリーだけでなく、そのストーリーが何を暗示しているのか。いわゆるメタ的・抽象的な見方が可能だ。

例えば第94回アカデミー賞作品賞を受賞した映画『コーダ あいのうた』なら、ろう者の親が娘の歌声の価値をわからないという内容には、①若者世代の文化を親が理解できず、ちゃんと勉強しろ!普通の仕事につけ!と言われる誰もが経験あるであろう普遍的な構図と通底するものがある。

もっと抽象的な解釈をすると、手話でのぶつかり合いを通じて、言葉だけでなく体での表現、②原言語的なコミュニケーションの価値が伝わってくる。

そこから派生して③顔や体の見えないSNS全盛社会へのカウンターメッセージが暗に浮かび上がっていると私は思う。

メッセージが多層的で深いからこそ溢れんばかりの感動が生まれたのではないか。

視聴者みんなが抽象的に言語化して楽しむわけではないが、鑑賞中は意識・無意識問わず、グラデーションのように様々なレイヤーでこのような解釈、つまり自分の体験への結びつきが起こっている。

このように映画は何層にもわたるレベルで解釈できる。

さて“正しい解釈”は①〜③のどの層にあるのだろうか。

より正確な言い方をすると、どんなタイプの解釈をどのように表現すれば正解になるのだろうか?

異なるレイヤー同士が相関し合うので、パターンは無数にある。

抽象的に受け取って社会の類似パターンに結びつけることもできる。

関係性をメタファーで表現することもできる。

物語を抽象的に捉えるのは普通であり、映画にそのシーンがあるわけではないため正解不正解は判断できない。

ひとつの解釈信者が正しいのなら、極端な話『コーダ あいのうた』でどんな家族も経験する世代間不和を感じた場合、その解釈は“答えの出ない裁判”にかけられる事になるかもしれない。

世代間不和までは経験値的に受け入れられても、SNS社会へのカウンターという解釈はより有罪に近くなるだろう。

連想ゲームのようでキリがないかもしれないし、突拍子もない意見もあり得るが、よりこの映画を心に残せるような解釈や表現をみんなで出し合っていくことに意義があると思う。

そこから個人の正解、時代の正解がおのずとピックアップされていくだろう。

ここで1個の結論が出る。
ひとつの解釈信者が想定しているのは、多数決的・一般的な解釈なのだろう。

一般的な解釈から逸れたものを「“市民権”を得ていないから“曲解”」と判断して攻撃しているにすぎない。

論理的な解釈が難しい作品もある

抽象的すぎて論理的な解釈が不可能な映画もたくさん存在する。

ひとつの解釈信者は、例えばデヴィッド・リンチ監督の『イレイザーヘッド』『ツイン・ピークス』『マルホランド・ドライブ』などについて、「これが絶対的に正しい解釈だ!」と胸を張れるのだろうか。(そんな人は見たことがない)。

デヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』はどうだろう?

キューブリックの『2001年宇宙の旅』についても、「これが1つの正解です」なんて無理だし、誰も求めてなさそうだ。

いくつかの作品は一連の流れが全て何かのメタファーになっている場合があり、特定の正解を当てはめるのは難しいだろう。

リンチやクローネンバーグなど難解な映画じゃないエンタメ作品でも、ラストだけ意味深…。さまざまなメッセージが考えられる!というのはよくある。

そこを想像で補完してはいけない理由はない

時代で正しさは変化する

仮にすごく正しいっぽい解釈があったとしても、正しさは時代によって変化する。
例えば2000年代くらいまでは不思議な黒人“マジカルニグロ”が登場して白人を助けるというプロットが多かったが、現在は差別的な配役だと認識されている。

マッチョな男性が女性を守るプロットも近年はあまり見ない。

そういった要素を持つ映画を今見返して、物語の完成度の印象が大きく変わることはないにしても、キャスティングを含めてキャラ設定や展開に物語上の必然性があったか疑問はわくかもしれないし、差別の文脈などが入り込み解釈にも多少影響が出るだろう。

トム・クルーズの『トップ・ガン』第1作(1986)について言えば、当時の解釈は「犠牲を美徳として戦うアメリカの理想。父を乗り越える息子の普遍的な青春物語」だったかもしれない。

今見返して面白さが減るわけではないが「亡霊のような強迫観念に取り憑かれた男の刹那的な物語」という趣きが強くなる。
アメリカの大きな物語が崩壊しているので、犠牲を美徳とするアメリカの理想への見方が変わるだろう。

絵画に関しては考えるともっとわかりやすい。
ピカソの傑作『アヴィニョンの娘たち』(1907)は、攻めすぎていて当時は画家仲間すら誰も評価できず、公開されずに放置されていた。

時代によって価値観と解釈が変わる証明だろう。ということは“ひとつの正しいっぽい解釈”は、次の時代では全く違う捉え方をされている可能性がある。

まとめ

  1. 作り手がすべてをコントロールしている絶対的に正しい存在ではない

  2. メッセージを多層的に解釈する過程でメタ的な表現も生まれる

  3. 抽象的にしか解釈できない作品もある

  4. 正しさは時代で変化する

上記のまとめを踏まえると、映画やドラマを見て語り合うのが楽しくなるのではないだろうか。

安直な正解不正解に囚われず、誰もが自分の意見を忖度なしで発信し、映画作品についてさまざまな角度から光を当てられる。

そんな社会を作るために微力ながら発信していこうと思っています。
終わり。


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