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一貫性と変容と

なんだか賢そうなタイトルだが賢くないのに賢いふりをするタイプの人間、日本代表である僕のことなのでたいしたことない文章になると思う。そこんとこよろしくです。

新年の挨拶に代えて。

生きていく上で一貫性を持つと楽ちんなんだろうなと思う。このケースはこう対応する、みたいな想定問答集的なテキストを丸暗記してその通り生きるみたいな。

だがあまりに一貫性というか通り一遍すぎると人間である意味がなくなる気がする。

人間である以上、臨機応変に対応を変えることを迫られる場面も多々ある。

野球経験者なので野球の話になってしまって大変恐縮なのだが、打撃の時に高めの球の打ち方と低めの球の打ち方は違う。バットを出す角度、ボールを捉えるポイント全部違う。内寄りか外寄りかによっても違う。変化球を打つのか、ストレートを打つのかでも違う。

どんなボールが来ても同じようにバットを振ってしまってはホームランどころかヒットも出ないし、なんならボールとバットが当たらない。その機に臨んで変じて応ずるというのが臨機応変の元々の意味のようだが、臨機応変のバットコントロールをするために野球選手はバットを振るわけである。

それと同じようにソフトクリームが死ぬほど好きな人と話をする時と、ソフトクリームなんて妙にまったりして脂っこくて嫌いだという人と話す時とあなたは同じように話すだろうか?

僕は実は変えてしまう。変に相手に気を遣う。ソフトクリームが死ぬほど好きな人と話す時はこれ好機とばかりにフルスイングしてホームランを狙ってしまう(狙いに行っているのではなく、狙ってしまう)。だがソフトクリームが得意でない人が相手になるとまるでイチローが三遊間を破る軽打を放つ時のような慎重なスイングになる。

なので僕は自分のこの一貫性のなさがとても嫌いである。どんな相手でも自分を失わずにコミュニケーションをとれる人というのはとても大人な気がするからだ。

しかしよくよく考えてみると僕のこの行動にもある種の一貫性がある。それは相手に心地よくなってもらえるよう会話しよう、という意図である。

ソフトクリームが好きな人とは好きを分かち合い、ソフトクリームが苦手な人にはそれに寄り添おうとする。それはある意味でのとてもソフトな優しさではないだろうか?

自分で言ってとても恥ずかしいがソフトな優しさという一貫性を僕は備えているのかも知れない。それは実はとてもいいことなのではないだろうかと思う。

そんな感じの完全自己満足の一貫性と変容とについてのお話でした。

お付き合いいただきありがとうございます。

志紀

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)