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日記と言うより雑記、長澤まさみというより小池徹平

今朝もまた珈琲を淹れた。

昨日、珈琲の淹れ方の指導を受けて感じた点が二つあったので記しておこうと思う。

ひとつ、直接言われたことだが繊細かつ大胆に珈琲を淹れる必要がある。不安や恐怖がルーツの感情を持って珈琲を淹れるとそれが珈琲に出る。珈琲にはウソをつけない。

もうひとつ、思いっ切りやった上での失敗の方が悔いが残らない。

丁寧に珈琲を淹れることはとても大切だと思う。もちろん、それは絶対にそう。丁寧さを失っては絶対にいけない。

だが慎重に慎重に石橋を叩いて叩いて、トントントントンヒノノ二トンなんて具合で淹れてしまうと珈琲豆たちが窮屈になってしまう。

珈琲豆たちとて生き物である。自由に躍らせてあげないと本来の味が出ない。

多分、人間もそうなんだろうなあと思う。

僕は意外な印象を受ける人も多いかも知れないが、実は即断即決タイプである。かなり直情的で、感情的にもなる人間だ。

しかし八年ほど前、ある出来事を境に僕は自分で自分に大リーグボール養成ギプスをつけてしまったのだ。

確かに全く慎重さを失ったら僕は生きてはいけない。だがあまりに慎重に慎重に窮屈になってしまっては、多分逢坂志紀くんという人の良さまで消えてしまうんだなあ。

それはよからぬことだろうと思う。少なくともよいことではない。

人間が究極なすべきことはただ自分であること、自分自身であることみたいな話を少し前に聞いた。自分でない何か、自分でない誰かになろうとするからしんどくなるのだと。

イグザクトリーである。僕はこれまで自分でない何か、自分でない誰かになろうとしてきた。今この瞬間もそういうところがあるかも知れない。

結局お前さん、何が言いたいのさと言われたらちゃんとしなくてもいいのかなあってこと。日記でなくて雑記ってのは、そういうこと。長澤まさみじゃなくて小池徹平ってのは正直意味はないけど、こじつけるなら長澤まさみみたいに主役張ってドラマや映画に出まくるのもひとつ、小池徹平は小池徹平なりに地位をつかんでがんばっているということ。悲しいかな、誰もがエースで誰もが主役になることはこの世界にはない。

だからこそ、自分の人生だけは自分のものとして生きたいなと思うのだ。何かに憧れたり、誰かを羨んで自分を見失わずに自分らしくただ自分らしく窮屈にならずにパッパラパーに生きたい。

志紀

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