ニューヨークの君へ

 ニューヨークの君へ

 こんな書き出しで手紙を書けると言うのはなかなか僕は幸せだと思う。“ニューヨークの君へ”、いい響きだ。そう、この手紙が君の元に届いたと言うことは(本当に届いているのだろうか?笑 何度も住所を確認した。)もう気付いているかも知れない。僕が君がお世話になるホストファミリーの住所を何気なく聞き出しておいたのはこのためだ。驚いただろうか? 君は驚くと言うより、すでに仲良くなったホストファミリーのママと二人でわーきゃーはしゃいでいそうだけど。喜んでくれていると嬉しく思う。
 さて、このような形で手紙をしたためたのはほかでもない。君にいつも言えないことを言おうと思ったのだ。顔を見て言えないことは言うべきことではないのかも知れないけれど、演劇に情熱を注いで本場の空気を実感したいと日本を発った君の勇敢さに僕はこれを言葉にせずにはいられなくなった。
 ニューヨークの景色はどんなだろう? 僕は海外はインドにしか行ったことがないから写真や映像で見たものをイメージするしかないのだけど、現代の文化の集約された土地と言うのは空気がまるで違うように思える。今は真冬だから日本よりもずっと寒いのだろう。風邪引かないでね。
 そうだ、横道にそれてしまった。君の勇敢さに思わず筆をとったと言う話だった。僕は編集者として様々な書き手に出会っている。大なり小なりプロの書き手だ。彼らには大きく二種類いる。仕事として淡々と文章を書くか、自分の命や魂を削って書くか。これは何も書き手に限った話ではなく、すべての人に言えることだと思う。淡々と物事に取り組むか、人生を賭けてそれに取り組むか。君の芝居に対する情熱は後者に近いと僕は思っている。
 ここで少し僕の話をしよう。僕は前者だ。確かにこの作品を一人でも多くの人の手にとってもらいたいと言う情熱は持つ。でも、あくまで事務的に仕事にどっぷりとはのめりこまない。どこか一線を引いている。仕事は仕事、人生は人生。だが君は違う。君の目に映るものはすべて芝居のための何かだし、それらを君は吸収して自分の血肉としている。吸収と言うより食らっていると言った方がいいかも知れない。
 突然だが僕は“気”の力を信じている。体中を流れるエネルギーのことだ。人間の体に限らず、すべての物に僕はこの“気”の力が宿っているように思う。君はその“気”の力をあらゆるものから取り込んで自分の“気”に作り変えて体外に放出しているように僕の目には見える。この“気”と言うのは魂と言い換えてもいいかも知れない。君の芝居には魂がこもっている。
 また先の話に戻ろうと思う。前者と後者の話だ。君は後者で、僕は前者。魂のこもらない僕の仕事はダメなのかと言うと、そう言うことではないと思う。前者と後者と大別して、それらが決して交わらず相容れないものだと言いたいんじゃない。僕が言いたいのは前者と後者は必ずどちらも存在しなければならないのだと言うことだ。
 ある作家が苦しんでいた。その作家は前者だった。後者の作家の魂のこもった文章に気持ちがあおられ、自分の作風を見失い、前者でありながら後者になろうとした。結果自分の良さまで消えてしまって、彼はペンを置かざるを得なくなった。
 彼は前者として生きていく人間だったのだと思う。上手く作品から距離をとって自分の魂の欠片を文章の中に落とし込んでいくような。僕が言いたいことは僕も君を見ていると彼と同じような思いに駆られると言うことだ。淡々と熱のない仕事ぶりでいいのだろうか? 舞台で光を放つ君はまぶしくてまぶしくて。だから君の芝居を近頃観に行っていなかったのはそう言う僕の気持ちがあってのことだった。
 僕に出来ることはなんなのかを考えていた。君のような危うさを持つ表現者の作品がしっかりと評価されるために淡々と仕事をこなすことしかないのではないだろうか? 君が持つ魅力をしっかりとエンターテインメントを待つ人々に届ける、それが僕の仕事で、自分の立ち位置を見失ってはいけないのだと思う。
 だから、君がニューヨークから帰ったら必ず君の芝居を観に行く。そこにいる君のことが僕は一番好きだから。

                                                                                                                                                      大志

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)