インド育ちの帰国子女が、日本に馴染めなかった暗黒時代の話。

高校一年の春、僕は人生で最初の挫折を味わいました。とは言っても、この記事を見てくれる苦しんでいる皆さんからしたら、プチ挫折くらいかもしれませんが、良ければお読みください。

盛大にスベった、帰国子女の高校デビュー。

中学3年間、インドのニューデリー日本人学校で育ちました。「インドで過ごす小・中学生の日本人は、当時合わせて100名以下。小1から中3まで学年あたり5人ほどの小さな教室で、誰もが分け隔てなく自由に発言し、互いを尊重しあえる「家族」「同士」とも言えるような環境。好きなことを好き、嫌いなことを嫌いと自由に言えた世界で、みんな仲良く楽しく育っていたように記憶します。

高校は、日本の学校に行きたい。そう思い、僕は帰国子女枠という推薦入試を受け、地元浜松市の進学校の国際科というクラスに入学しました。今思えば、インドのせいでもなんでもなく、僕は変わり者だったと思うし、きっと今も変わり者と言われがち。入学式の式典で、君が代をとんでもない声量で歌っていた(とは僕は今だに思っていない)のが、クラスメイトだけでなく多くの生徒に奇異に映りました。そりゃそうか。変だよね明らかに 笑

インドの時は、やりたいことは自由に手をあげてよかったし、みんながそれを許してくれた。そのノリで、ごく普通に何も考えず、クラスの評議委員長(学級委員みたいなもの)に手を挙げ、学校祭を仕切ろうとし出した僕。相手は地元の中学の成績トップや様々な国の帰国子女の人たち。そりゃ、びっくりしただろうし、ウザいよなと今なら思えます。

ほどなくして僕は、クラスのとある男子に睨まれ、彼に同調する人々を中心に盛大に無視されるようになりました。仕切る気満々だった学校祭のクラス展示も、いつしか参加しにくい雰囲気を醸し出され始め、僕はそのままクラスの輪から生徒会に逃げるように入れ込むように。1年生の時の記憶は正直あんまり今もありません。

好奇の目を払拭したくてジタバタするほどハマる闇

僕はその頃から音楽でメシを食う、プロになると心に決めていました。暇があれば音楽室でピアノを弾いていたし、放課後は家に帰って歌を歌いながら、自分が作りたい曲をピアノで作り、当時まだWindows XPだったPCを使って作曲していました。自分には音楽がある、だから音楽を発信しよう。楽器がどこでも弾いていたし、歌っていました。

人の世というのは「前向きな市民権」を得ぬまま目立とうとすると、待っているのはより変人扱いされるという負のスパイラル。生徒会に、国際科に、気持ち悪い歌ってるやつがいる。立ち振る舞いも独特だったのか、その噂は校外にまで波及していたそうです。

極め付けに、やめときゃいいのに、生徒会に入っていた僕が全校の人に自分を認めてもらいたい一心で志願した、生徒会長の責務。校内で僕の噂を知る人たちからすれば、より好奇の対象に見えるだけ。生徒会長になったはいいけれど、スピーチする度にステージ上にまで聴こえるヒソヒソ話と嘲笑。自業自得ながら、あれはメンタル鍛えられました。辛かったなー。

曲がらないものを曲げずにいると、強力な味方が現れる

人に合わせられない、どうもテンポよく会話できない、人より目立つ、趣味が異常と思われがち、容姿端麗すぎ、複雑な家庭の事情などで、人を信じられない、世の中とうまく付き合えない様々な人たち。10代の頃に受けた傷を今だに背負いがちでしょうし、脱却するのってなかなか大変だなってとても思います。僕は特に、人に認めてもらいたくて目立とうとしていたから、目立てば目立つほど押しつぶされそうになっていました。

そんな時に助けてくれたのは、目立っていて、けれど自分が自らそうしようとせずに周りから好かれている、学校でも指折りのムードメーカーで、男女ともにイケてる子たちからこぞって好かれる隣の席の男の子でした。入学したその日から、彼だけは唯一僕を面白いヤツとして迎え入れてくれました。

僕が人にどう伝えていいかわからない言葉を、彼は彼の言葉と人望で翻訳して、周りに伝えてくれました。その結果、少しずつでしたが周りに友達もでき、僕をよく知らない人も「齊藤って変な人だけど、アイツが良いヤツって言うならイイやつなのかな」と少しずつ話しかけてくれるようになりました。10代の頃ってちょっとした誤解同士が人を遠ざけがちだけれど、それも、高校を卒業したタイミングくらいから、徐々に分かり合えたりする。その最中を支えてくれた仲間がいたことが、僕の一番の救いでした。

そんな彼は今、雑誌の編集者・プロモーションプランナーとしてのキャリアを経て、多忙の中僕のアルバムやPRに関するマーケティングディレクターとして共に動いてくれています。人生の大勝負に、自分を救ってくれた仲間に支えてもらえるなんて、恵まれていますね。

彼がいつも僕に言うのは、「耕太郎があの時から自分を曲げずに進んできている姿をリスペクトしている。だから一緒にやりたいんだよ。」という言葉。僕は、極論そういう信頼できる仲間が数人いれば、どんなに辛くても生きていける。高校時代の経験が今も生きているから、不安定な、食えるか分からないミュージシャンとして業界の内外で戦えていると思います。

痛みを知っていることが、誰にも負けない才能になる

僕の音楽のベースは、間違いなく思春期に知った「人の痛み」なんだと今改めて思います。当時ずっと聴いていた音楽・メッセージが今自分の根っこにあると思うし、僕の痛みに寄り添ってくれた音楽への敬意と感謝の気持ちが、自分を動かす糧になっています。

これまでずっと、「俺は繊細なヤツだ、心を痛めやすい、弱い人間だ。」と思ってきました。でも、最近ようやくそう思わなくなりました。痛みに耐えられる人間だから、僕はこの人生を託されただけ。無理なヤツ、途中で投げ出すヤツに、最初からそんな困難は与えられない。と。

音楽をはじめとした「知恵の産業」にとって、人と違うこと、強烈な特徴や個性を持つことは歴然たる才能です。

特に今の時代、「可愛い」「綺麗」「かっこいい」の定義が必ずしもひとつではなくなり、実現力ひとつで誰でもその定義を新しく作ることができる。今苦しんでいる皆さんの、世の中から外れた生き方をできること自体が絶対的な強みだと僕は思います。もしあなたを身近の環境が認めなくても、自分で認めてくれる場所をどこかに探せば必ずあるでしょう。

学ぶための最良の選択は、学校とは限らない。

学校に無理をして行く必要もないと思う。けれど、学校に行かないなら行かないなりに、学校に行くより面白く、学校に行くよりイケてると思える遊びを通じて社会を、人間を学んでもらいたいです。

10代というのは尊い。その時に感じたことひとつひとつが、その後の人生における「選択のセンス」を決めてしまう。付き合う友達、恋人の趣味、ものの選定基準。20代〜30代の前半くらいから、このセンスの差で圧倒的にライフステージが変わります。ボケッと毎日学校に行くだけより、やりたいことを追求して生きている日々の方が研磨力が高まる。それを日々の生活のどこかで感じて、どうか自分自身の生き方を、せめて自分だけは肯定してもらいたいです。そのうちすぐ、フォロワーが現れるので。

とはいえ、教養は人を救う。

無名のミュージシャンの僕にとって今、もっとも自分を強くしてくれているのは教養です。大学受験はそれなりに頑張ったおかげで、僕は慶應義塾大学に入れました。今の仕事で学歴が生きたことはただの一度もありませんが、教養は知識を整理し、新しいアイデアを生み出すための潤滑油になります。それに大学に入っただけで、一応世の中的にも「やることやった」と思ってくれるので、多少変人でも周りのノイズを黙らせることができるのでオススメします 笑

社会を知ると、その中で新たなヤバイ変人に出会える。

人間は結局1人で生きているより、誰かと生きていることの方が幸せなんじゃないかと思います。たとえどんなに強がっていたとしても。

僕は東京に出てきて、社会が広がったのを今も覚えています。ここ最近も、自分が無理に人に合わせる生き方をやめた瞬間に、少し縁遠かった人と急激に仲良くなれたり、自分に嘘がない状態だからこそ自分の好きな人種に出会える機会がとっても増えました。以前は数少ない仲間さえいてくれれば、と思っていましたが、その数少ない理解者がここ数年一気に増えた気がします。だから今、今まで一番ハッピーに生きています。

わからない人に、自分のことをわかってもらう努力をするより、わかってくれる人を介して自分を知ってもらう方が圧倒的に楽だし、効果もあると思います。どうかまずは、自分のフィーリングで「面白い」と思える人に出会って欲しい。そういう人同士は、人間が持つ善良なモラルの元、信頼関係を築けるようになると思います。最近は頑張れっていうのが世の中的に良くないらしいですけれど、そこは努力一つでものすごく解決することなので、是非みなさん頑張ってください!僕も引き続き、頑張ります。

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