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【短歌と和歌と、時々俳句】26 渡部泰明『雲は美しいか』(平凡社 2023年)書評

 年賀状を書かなくちゃいけない。
 大晦日に言うことでもない。だけどそろそろ年賀状という習慣も終わりにしようと思う中ではなかなか手が動かない。これはもちろん言い訳。
 せめて恩師にだけは出そう。そう思ったのは、本棚にある『雲は美しいか 和歌と追想の力学』(平凡社 2023年)が目に入ったからだ。
 本書は僕の本棚に2冊ある。1冊は予約注文して購入した。もう一冊は著者である師が贈ってくれた。購入したのは3月で恵投いただいたのは10月ごろだった。この時期のズレが何を意味するのかを考えてしばらく楽しんだりもした。しかし筆不精の僕はお礼状を書いていない。本をいただいてノーリアクションというのも申し訳ない。年賀状は書かなくちゃいけない。

 年賀状のために読み返すことにした。相変わらず文章に色気がほとばしっている。例えば藤原顕輔の

夜もすがら富士の高嶺に雲消えて清見が関に澄める月かな

詞花集・雑上・303

を取り上げた時の言葉だ。こうまとめられている。

雲が舞台を退場することによって、主役である月が登場する。要するに美の新たに出現する感覚が狙いである。現れ出でた一瞬の記憶を、長く封じ込めようというのである。いくら富士に付き物とはいえ、煙にそこまでの役割は果たせない。雲は、畏怖さえ覚える光輝を立ち現す媒介なのであった。

『雲は美しいか]』p11-12


 「美の新たに出現する感覚」。
 ああそうなのか。月が浮かんでいる。月が輝いている。清輔が描いたのはそうした「ている」の感覚ではないのだ。闇のとばりを下ろしていた雲が晴れて月が出現する。その「する」の感覚に清輔は焦点を絞ったのだ。

 そして「畏怖さえ覚える光輝を立ち現す媒介」。
 いやあこの語りの色気。これは言えないぞ。「畏怖さえ覚える光輝」。御簾が取り払われて姿を見せた帝王みたい。
 酔っちゃうね。

 さて、この清輔歌は導入である。本書の論の中軸は『文選』の「高唐賦」だ。良岑宗貞(つまり僧正遍昭)の

天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ

を皮切りに、「高唐賦」に影響された雲の文学史を解き明かす。

 この語りの身振りが、やはり師だ。師は「今、ここにいる私」として伝説的な歌人たちと向き合い言葉を浴び感動することはない。そうではなく「あの時、あそこにいた彼ら」に寄り添い、彼らのまなざしを探り、彼らが見聞きし思考したことを探り出す。良岑宗貞、清少納言、あるいは創作キャラクターである光源氏にさえも。この立ち位置が良い。屹立し睥睨し我々に平伏を強要するかのような古典を優しく解きほぐす。清少納言らに、まるで知り合いの知り合いくらいの立ち位置にいるかのような身体感を与える。僕たちが「あ~そうそうわかるわかる」と共感するのを待っているような存在として描き出す。

 こんな大胆な語りをしながら師が見据えているものは何か。それは「おわりに」に書かれている。

古典を自分のものにすることは、個人の想いを追想することである。しかも、そうやって古典は順繰りに受け渡されてきたのだから、かつてあった追想を自ら体験するということでもある。体験化すれば、いつでも思い出すことができる。生活の何やかやの局面で古典を思い出として生きることができれば、私たちは思うよりずっと幸福に近づくだろう。

『雲は美しいか』p92

 古典を読むことにおいて師が見据えているものは幸福である。その方法としての体験化である。師は古典を彼岸に置くことを良しとしない。私たちが古典に寄り添い、「かつてあった追想を自ら体験する」ことを理想とし、それにより幸福に至るという。

 宿題だろうととらえている。僕ら中学や高校で教鞭をとっている者も含め、古典教育に関わる全ての人に向け、「お前たちもやってみろ」と言っているのではないか。そして生徒たち、学生たちにやらせてみろ、和歌を、古典を体験させてみろ、と言っているのではないか。
 そんなことを言ったら師は「お~面白いことをおっしゃいますねえ」なんて韜晦しそうな気もするけれど。
 やってみよう。幸い鹿児島は山川草木の豊かな地だ。和歌的情緒を体験するには事欠かない。花を月を鳥を風を、和歌的体験としてとらえるような授業を作ってみよう。そうすることで、著書を贈ってくれた師への答えとしてみよう。

 大晦日の昼過ぎに投函した年賀状は、こんなことを考えながら書いた。

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