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読書日記(20240422)〜「働く女子と罪悪感」(浜田敬子)=なんだかんだで変わってないよ

少し前、元AERA編集長でジャーナリストの浜田敬子さんが書かれた「働く女子と罪悪感」を読み終えた。https://amzn.asia/d/4aLsqTd

本の存在は知っていた。正直、なんとなくの読まず嫌いだった。
でも、特に今、管理職前後に差し掛かり、「自分は大丈夫と思っていた」とか「今って男女の壁ってなくなったんじゃないの?と思ってたのに聞いてない」など、壁にぶち当たった女性がいて文字通り、心身に不調をきたすほど悩んでいたら、読んでみてほしい。ひとりじゃない。わたしは今、おやすみ中だけど、だからこそ、思い返してみている。


1.はじめに〜20年前と本質は変わっちゃいない


残念ながら、今(2024年4月時点)と20年前、少なくともわたしのまわりの大企業の大半 (※JTC(ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニー)と揶揄される)は、「制度」が変わっても「本質や価値観」はそんなに変わっていない。

この本は、浜田さんは、苦しんでいる“妹たち“に、一生懸命、「よりそいたい」と思って書かれたように感じた。そのくらい、ご自身の「弱さ」も率直に書かれていた気がする。少なくとも、わたしはそう受け止めたし、寄り添ってもらえた部分も多かった。

前提として、浜田さんは、わたしより二回りほど上の方だ。

この世代の先輩方は、大企業でも数えるほどしかいない「男女雇用機会均等法世代」のキャリア女性たちを「輝く先輩女性たち」のようなタイトルで、よく研修で紹介された。

対して、わたしのようなミレニアル世代に突っ込んだアラフォーは(たぶん共通して)「この人たちみたいに何もかも振り捨て、耐えてまでキャリアを目指すのは無理」(セクハラ、長時間労働その他、さまざまな意味で)と、冷めた会話をしていた。

強烈なサバイバルレースを「勝ち抜き、生き残った」女性たちのなかで、役員になった人もいる。が、残念ながら、子どもがいる人は、数人の執行役員以上のうち、たった1人だ(ちなみに役員はウン10人)。彼女たちが50過ぎてもオジサンたちとのゴルフや飲み会によく付き合っていることを、わたしたちは知っていた。男性たちもゴルフに行く。性差ではない。

むしろ、声をかけない方が差別だと感じるだろう。
問題なのは、そういった「お付き合い度数」が、意思決定に大きく関わる、という意味で、子育てや介護があると、なんらかの制約がかかってくる。不利だ、ということだ。

一方で、わたしたちミレニアル世代が管理職に近くなってきた今。
これだけ「女性活躍」がいわれ、「女性にゲタを履かせている」とさんざん揶揄され、20代の後輩たちからも「もう(男性優遇なんて)ないのに先輩たちは」といわれている。恵まれたミド・アラフォー(元ミレニアル世代)を不甲斐ない、と思うかもしれない。

わたしもそう思っていたの。
「今はなんだかんだで制度も充実したし、子育てしながら男性と同じように働ける」と。なのに、いざ、子どもを持つフルタイムのチームリーダーになったとき突然、存在さえ意識してなかったいわば「ガラスの天井」があることを実感し、ゴン! と思いっきり体当たりした。

そして日々ぶち当たる中規模のカベは、浜田さんがおそらく20年前に経験してきたもの、ほとんどそのものだった。かなしいくらいに。

2.「カベ」は遅れてやってくるだけ

カテゴライズすると、
「偏差値高めの大(大学院)卒」「正社員」「(外から見ると一見)キャリア系」「大都市で働く」な女性の母集団は多いはず。
※わたしが就職してから過ごしてきた環境はそんな感じなので、とても視野が狭いと思う。そして年々、女性後輩の数は増えていく。

そんな女性たちは、学校を卒業し、意気揚々と入社し、20代でよーいドン! とスタートしたら、女性たちは頑張る。褒められる。
みんな本当に一生懸命、受験勉強した「いい子」が多い。

真面目さで行けば、わたしの体感だけれど、世代が若くなるほどに真面目になっていく印象さえある。大学の単位取得も厳しくなっているらしく、授業にしっかり出ている割合は、若者の方が高い。

「理不尽さ」の権化ともいえそうな、パワハラもセクハラも、昔に比べたらきっと、マシだ。法律で決まっているし、何より男性にリスクが大きい。失うものが大きすぎる。

サークル活動もしっかりしている。男性女性関係なく、一緒に「幹部」をやっている人は多い。男尊女卑なんてない。昔と比べて、なぜか「その大学に所属する女性が入れないインカレ(都心の有名大学に多かった。近隣の女子大生を優遇して、同じ大学の女性を断る もしくは 冷遇する)」の存在も、もうあまり聞かない。

2000年代以降の体感だけど、就活や社会人数年までは、わかりやすい「男女のカベ」を感じることは少ない。むしろ、女性だからと気を遣われたり、ご飯に連れて行ってもらえたり。「ゲタ」とも言われるものはを感じるんではないか。

「カベ登場」はそのあとだ。嫌な言い方だけど、
「かわいい頑張り屋の女の子」が、「オバサン管理職」になったときだ。ましてや、子持ち既婚なんて、女性じゃなくて母親。

その時、「若いころにかわいがられた気がする」の呪いが、なぜか、女性本人を直撃する。全力で否定する人たちも多いだろう。いやいや、そんなことない、機会は平等だ、実力がない自分が悪い。

ではなぜ、この本にこんなにうなづいちゃったんだろうか。

3.なぜ、働く女性は同じ悩み 「ナメられる」を繰り返すのか 

わたしがこの本で思いきりうなづいてしまったことがある。
管理職近くになったとき、これまで味方(でも敵でもないが普通)だった同世代前後の男性が変貌する。そして、女性たちが味方になる、ということだった。

表面上は変わらない。ただ、いんぎんな感じで、「もちろん盛り立てますよ」みたいな空気を放たれ、仕事をしてくれないわけではないけど、明らかに見下したような態度、いうなら「ナメられる」。なぜだろうか。

その後の変遷は人によって違うけれど、わたしの周りの女性で「ナメられている」と感じたことのある人はほぼ100%だ。それをニコニコかわしたり、怒鳴ったり、さらに上の上司に叱ってもらったり、いろんなやり方で苦悩するが、結局、「ナメられる」ことで苦労する女性は多い。

男性でも、「ナメられる」だろうし、ナメられることを乗り越える、「タイマンはれる能力」がリーダーにある程度、求められるのに違いはない。
ただ、女性が次にくるカベでしんどいのは、そうやって「タイマンをはる」と、「あいつは女を捨ててるんだよ」など言われる。

そもそも、ケンカの仕方を知っている総合職の女性は少ない。
優等生の女性に必要な項目ではなかったからだ。
それさえどうにか乗り越えて、(擬態さえして)「そんなの上等だ!」という瞬間もある。なぜ、男性は「男を捨てない」でいられるんでしょうか。

リーダーとして振る舞わなきゃ。でも、お母さんとして、妻として、恋人として、優しい自分でもいたい。自分がどんどん嫌いになっていく。
ちょっとずつ削られていく心は、ボディブローのように効いてくる。すっかりすり減る。そして、「もうこの環境でリーダーなんて無理だ」と、「ゲームから降りる」。きっかけは、色々あるだろうけど。

3.結局、自分がどう生きたいか

ぐだぐだ書いたけれど、わたしの心境は、結局、「自分がどう生きたいか」ということに尽きる気がしている。

女性管理職を増やそう、だの、働き手を増やそう、だの、産めよ働けよ、みたいな世の中の流れは正直、どうでもいい。わたしやわたしの家族の幸せの方がよほど大切で、それよりも大事なものなんて、ない。それは、生きている人全員がそうだ。

「今この瞬間瞬間をゴキゲンに過ごす」ことができないなら、男性も女性も、世間とやらから「降りて」いいと思っている。

この著書のタイトルにあるように、わたしも「罪悪感」に押しつぶされそうになりながら過ごしていた。そして、その罪悪感にぐいぐい乗っかられている間中、家族も職場も笑顔じゃなかった。笑顔じゃないなら、(明日死ぬかもしれないのに)やっぱり自分を大事にできていない、ということになる。
そんな無駄な時間を過ごすことはない。

本の趣旨で伝えたかったこととと違うかもしれないが、改めて思う。

会社に期待されたため、とか、時代の要請があるし、と、頑張る必要は絶対にない。女性は特に、生物学的な「妊娠・出産」というものを意識することがある。
そのときに、「罪悪感」と仲良くするのではなく、自分が今この瞬間をごきげんに生きるための選択ができればいいな、と心から思う。

娘たちに対して、失敗続きの母親から伝えたい。
自分が今、この瞬間をごきげんに生きられる道を、ずっとずっと模索してください。

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