筑千近 第一部

プロローグ


二千年三月二十五日。
この日筑紫蘇野は小田急江ノ島線の鵠沼海岸駅にいた。
鵠沼海岸は神奈川県藤沢市にある、相模湾に面する海水浴場の一つであり、毎年夏になると多くの海水浴客で大いに賑わう。
そんなところに彼女はまだ肌寒い弥生の日、観光客も少ない時期にここを訪れていた。
さらに、まだ空も柿色に染まるか染まらないかの朝も早い時間帯である。
人がまばらの駅を出て白い街路灯が儚く光る中、少し歩き、海岸に辿り着く。
彼女は着ているコートのポケットに手を突っ込み、一枚の写真を取り出した。
その写真には、父親と母親、そして娘が笑顔でカメラを向いている仲睦まじい様子が映されていた。あれは数日前迄に遡る。


第一章 始まり

2021年11月執筆

彼女は関東平野の端に近い昭島市にて夫と娘の三人で暮らしていた。
仕事先で巡りあった夫と結婚し、その後娘に恵まれて、毎日充実した生活を過ごしていた。
朝は夫を会社へと見送り、その後娘を叩き起こして朝食を食べさせて会社へと見送り、家事を昼間こなしながら二人が帰ってくるのを待ち、その後帰ってきた二人を迎えて夕食を食べ、その後団欒をする。
そんなありふれた慎ましい日常を彼女は当たり前のように思っていたが、これを小さな幸せと捉えていた。
しかし、そんな日々は突如終わりを迎えてしまった。
千九百九十九年十二月七日のことである。
この頃娘は成績不良により塾に通う日々を過ごしていた。
帰宅時間は八時と遅く、通うために彼女は毎日塾へ娘の送迎をしていた。
しかし、その日は筑紫蘇野は用事で都心に行き、いつもより運動をしたせいか、疲れ果てて家の居間で横たわっていた。
そんな彼女の体調を案じ、夫が代わりに娘の送迎をすることになった。
「気をつけてね」と今のソファから夫を見送り、ただテレビを見て夫たちの帰りを待っていた。
時計が八時半を指した頃、突然家の電話が鳴り響いた。
一体何事かと重い体を上げて受話器を取った。
電話の相手は警察であった。
「もしもし。筑紫蘇野さんですか?」
警察はどこか切羽詰まったような声で筑紫蘇野に話しかけた。
「はい。筑紫蘇野ですが......一体何のようでしょうか?」
そう警察に問いかけると、警察は衝撃的なことを筑紫蘇野に伝えたのだ。
「筑紫蘇野さんの旦那さんと娘さんが昭島駅の南口で暴走した車輛と追突事故を起こしました」
「えっ!?夫と娘は無事なんでしょうか?」
「その......現在病院に搬送されています。なので今すぐ病院の方に来てください!」
警察から夫と娘の搬送先である病院の名前を伝えられ、彼女は急いで伝えられた病院である、昭島総合病院に向かった。
受付を済ませ、廊下にある合成皮革のソファに座る。
少しすると少し離れた廊下から搬送台車の音が忙しく聞こえてくる。
音がするほうに向かうと、台車の上に倒れている二人の体を見つけ、駆け寄ってきた。
「ねぇ、大丈夫!?貴方!」
そう彼女は夫に声を掛けたが夫らは微動だにせず、医師らに運ばれていく。
夫や娘の体には傷や痣が多くついていて、体が蒼くなっていた。
そして、台車はカラカラと姦しい音を立てながら手術室の扉の向こうへと消えていった。
彼女はなすすべもなく、廊下にあるソファに座ることにした。
手から滲み出る汗が服を濡らし、ただひたすら無事であるようにと手を組んで祈ることしか出来なかった。
数十分後。
手術室から医師が出てきて、ソファに座っている彼女の方に向かった。
医師は申し訳無さそうな顔で彼女を見つめ、一声を発した。
「今から言うことを落ち着いて聞いてください。」
その言葉に対し、彼女は半分狂乱状態で医師に問い詰めた。
「夫は、娘は無事なんですか!?いや、骨折やかすり傷ぐらいで済んでいますよね!?」
彼女の言葉に対し、医師はたじろえた様子で残念そうに答えた。
私達もそう願っていましたが......前方から勢い良く衝突してしまったようで......その......大量出血で即死でした......」
「即死」という言葉を聞いた途端、膝から彼女は崩れ落ちた。
突如訪れた人の死にただ茫然とするしかなく、泣きわめくことさえできなかった。そして、事故から数日後。
二人の葬儀が執り行われた。
黒いリボンが飾られた遺影。
その周りには華々しく花が飾られ、その前には二人分の棺が置いてあった。
葬儀には親族や夫の同僚、娘の友人らが駆けつけ、二人の死を悲しみ、お香をあげていた。
弔辞の際には声が乱れてしまい、もはや何を言っているのかさえ分からなくなってしまう程の者もいた。
彼女はただ、無表情で祭壇を見つめていた。
彼女はその後、警察から色々と言われた。
二人を奪った朝倉片惟という男は二人同様即死だったそうだ。
車の前方部分は見事に跡形がなく、運転席助手席は幅が四十センチあるかないかだった。
過失割合は夫と朝倉で零対十とされて、朝倉は被疑者死亡で書類送検され、彼女は朝倉の遺族に対し裁判を起こした。
証拠品として出された事故現場の目の前にあった飲食店の監視カメラには暴走した朝倉の車が二人の乗った車に勢い良く衝突したところが写っていた。
そのため、朝倉の遺族は控訴をせずにスイスイと進み、筑紫蘇野らに慰藉料などを数千万払い、やがて四十九日を迎えた。
法要を終え帰宅し、荷物の整理を義母としている。
荷物を箱に詰めて整理していると、彼女は呟いた。
「私、なんのために生きているんだろうか。」
その呟きを聞き逃さなかった義母は咄嗟に彼女に対して、「あんた何いってんの!?」と𠮟咤した。
義母の大声で部屋は静まり返り、彼女の手は止まる。
そして、少しの間の沈黙の末、彼女は立ち膝になり義母に反駁をした。
「だって、お義母さん!夫も娘も轢かれ死んで守るべき存在、守られていたものを失った!両親は早逝しやがって、忙しいお義母さんぐらいしか身寄りがないし、仕事だってもう三十代の私にはどうせ低賃金の食い扶持が保てられないような単調な仕事しかない!このまま餓死したり鬱になって苦しむよりかはさっさと死んだほうがマシ!」
間髪を入れずに矢継早に、途中から涙声になっていった彼女に対し、義母はゆっくりと諭すようにこう言いかけてきた。
「ヤケクソになって自殺しようとしている貴方の姿を見て、夫や娘はどう思う?」
「なっ......」
彼女の足袋が畳の艾と擦れる。
「去年の夏頃だったかしら......私のところに帰省してきたときに、息子、いや貴方の夫と喋っているときにね、ふとこう言ってきたの。妻や母親に幸せになってほしい。長生きしてほしいって。」
「だから何なんですかお義母さん!」
「だからね......」
彼女にとってはこの時点で義母から発せられる言葉のすべてが癪に触るものだった。
「もういいです!ほっといてください!」
取り乱しながら部屋を出ていった。
もういい。こうなったら......
彼女は財布と携帯が入った手提げ鞄を持ち出してそのまま家を飛び出した。
「......ちょっと悪かったわ。私も少し綺麗ごと言ってしまったかもしれない......」
数分後、罪悪感が込み上げてきた義母はまだ自室に彼女がいると思ってそういいながら自室のドアを開けた。
既に彼女は駅にいたとは知らずに。
街路灯の明かりしかない街を思いっきり走り、駅で切符を買い、その足で北からやってきた電車に彼女は乗り込んだ。
そして町田駅に着いた彼女はさらに鵠沼行きの切符を購入した。
何とか終電に間に合い、日も回った夜中、彼女は鵠沼の海岸に辿り着いた。
暗闇に響く波が呻る音。蛍のような漁火。
娘が小さいころ、三人揃って訪れた思い出の地だ。
思い出が頭の中でフィルムのように一巡し、幸せだったころを思い出し涙が出る。
春の凍えるように冷たい海水に足を浸らせる。
もう何も思い残すことはないと、虚ろな目で空を眺める。
今から二人のもとに向かいます。
心でその言葉を握ると彼女は思いっきり沖のほうに歩みを進め、砂に足が付かなくなったところで口を閉じ、沈んだ。
徐々に息が苦しくなる。
喉に焼くような痛みが走る。
それが原因なのか、彼女はそれを変に意識してしまいすぐに水面に顔をあげてしまった。
自殺すらできない情けなさと同時に、今死んでもいいのかという疑念がわき始める。
頭が漸く冷静さを取り戻した。
なんてことをしてしまったのだろうか。
私は二人の分まで懸命に生きる義務がある。
それなのに無責任に感情の赴くまま自殺するという短絡的な行いをしてしまった。
そしてあんなことを吐いてしまった義母さんにも謝罪をしないといけないし、心配しているだろう。
落ち着きを取り戻した彼女はそう、陸のほうに向かって足を漕ぎ始めた。
彼女が目を疑ったのはすぐのことだった。
どんなに泳いでも陸地が見えないどころか浅くならないのだ。
せいぜい百メートルも行っていないはずなのにどんなにどんなに泳いでも全く浅瀬も、明かりも全く見えてこない。
星空輝く大海原に一人残されてしまったような感覚と焦燥感が彼女を包み込む。
そのうち彼女は疲労のあまり、気を失い漂流した。


第二章 出会い

2023年9月執筆

どれくらい気を失っていたのだろうか。
彼女は誰かに棒で突かれたことで目を覚ました。
空はすっかりと明るくなっており、あたりには涼しい風が吹いている


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