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【陰の人生#12】タヒとの直面

!閲覧注意!
 センシティブな内容を含みます。読む時には、是非自身の心の状態にお気を付けください。
 また、ある程度の検索避けとして普通の漢字ではなく「タヒ」という、ネットスラングを使用して書かせていただきますことをご了承ください。

 「暗夜行路」って、いつ物語が動き始めるんだろう…って思ってる内に前編が終わり、相変わらず何かが始まる気配のない後編の最初の数ページで挫折しました。

宗教組織の告別式

 職場の先輩である信者の女性が亡くなり、告別式が行われました。
 通常、キリスト教では自タヒは天国へ行けない(神から授かった命を無駄にしたという理由?)とされているようですが、当方ではそういうわけでもなかったです。
 神は、彼女が生前示した神への愛に報われる、と。楽園での復活に与るでしょう、という訓話が為されました。
 そのお話に異存はありません。
 そうであって欲しい、と思いました。

 ただ、そこに集う人達に、私はまた初期の頃のような違和感を覚えました。

 我々の宗教団体では「喪服は着用しない」となっていました。異教の風習にその起源を(以下略)
 ですが、やはり故人の遺族(信者ではない)も出席されます。いわゆる喪服ではなくても、遺族の心情を慮れば自ずと地味めな服をチョイスするものだと思うのです。

 花柄のド派手なスーツに度肝を抜かれたのは私だけだったのでしょうか。

 普通の服の人が多くはあったのですが、今日に限って何故その服をチョイスした?と思うような人がチラホラいらっしゃいました。

 お別れの訓話に違和感があったわけではありません。

 ただ、告別式が終わった後、その方と仲の良かった方達が号泣する中「楽になりたかったのよ」「やっと楽になれたのね」「楽園で会えるわよ」、そんな言葉を掛けてくる仲間達。
 下手するとその横で談笑している仲間達。花柄のド派手なスーツで。出勤前のキャバか。(今のキャバ嬢はもっと違う格好でしょうね…)

 ちなみに、自分は黒っぽいオシャレブラウスと黒のヒダロングスカートで行きました。「喪服」を着ないと言われても、明るい服を着れる気分ではない。母には最初は黒に懸念を示されましたが(まずココからおかしい)「あなたは普段から黒を着るから、まぁ良いでしょう」と言われました。

 それぞれ、個人として相対した時にはそこまでの違和感は感じない。無論、感じる人もいるけど、それは別に宗教組織の内部だけに限った話ではない。
 でも、こうして1つの集団になった時に醸し出す雰囲気が、何だろう、人の顔をした得体の知れない何かのような、そんな雰囲気を纏う時があるのです。集団あるあるかも知れませんけどね。
 コンビニ前のヤンキーとかと、同じ現象なのかな。

 父方祖母の葬式を思い出し、それと比べて、何となく胸の奥がヒリヒリしました。(祖母の葬式の時も談笑くらいありました。というか、彼女は癌ではあったのですが、癌の進行が先か寿命が先か、と言われてからの大往生だったので参列者も和やかでした)

私は逃げ出した

 上司のセクハラが苦痛で、アルバイトは辞めました。赤字必至のイラストレーター兼WEBデザイナーと知人の子供を見る程度のカテキョの仕事では、とても食いつないで行けるものではありません。
 その矢先、母方祖父からのヘルプが実家に届きました。
 母方祖母の認知症が進んでいるらしく、よく物が無くなる。更に言えば、来てくれるヘルパーさんが怪しいとのヘルプでした。
 要するに、祖母が記憶無く気前良くあげてしまうのかどうかは分からないのですが、家から物が無くなるのです。それも、小さいものではありません。

 家具です。(他にもバッグや洋服など)

 祖父の状態もあまり良くなかったのですが、車で往復3時間の距離を母が介護と見張りに行くわけにも行きません。
 10年ほど母が在宅介護していた父方祖母が亡くなってまだ間もなく、また、我家には学童期の弟達がいました。
 かと言って、祖父母を呼び寄せて一緒に住める程の広い家でもなく、何よりもそれをすれば家族全員すべての生活がカオスになることは火を見るより明らかでした。

 そこで立ち上がったのが、私です。

 私にしてみれば、仕事も無し金も無しの状態から何とか生活だけは保障されそうな環境に有りつけるわけで、渡りに舟でした。
 実家にしてみても、私が祖父母と一緒に暮らしてくれるなら安心だ、というわけで、利害が一致したのです。

 私は各所方面に責任持って〆切仕事を続けていけなくなった旨を説明し、1件のWEBデザインを除いて、すべての仕事を同業知人に引き継いでもらいました。
 1件だけは、どうしても私が良いと仰っていただけて、実は今も細々と続けさせて頂いています。もう、30年にもなります。早いものです。
 挿絵師の仕事も残念なことにちょうどこの頃に雑誌が廃刊となり、終了致しました。2度ほど文庫の方のお仕事も頂きましたが(何と作家さんからのご指名でした。ありがとうございました)これを機に、離れさせて頂きました。
 個人サイトの方もイラストレーター兼WEBデザイナーの看板を下ろし、同人サイトに突如衣替えしました。

 私が一緒に住むことになったと顔合わせをした際に、来てくれていたヘルパーさんの一人が明らかに顔を歪めて「ちっ!」と舌打ちしました。笑。隠しすらしないって、凄過ぎない? 思わず出ちゃったのかな? 50代くらいのパッと見は優しそうなオバチャンでしたが。
 ケアマネさんが、このヘルパーさんはすぐに変えてくれました。限りなく真っ黒に近いグレーだったとは思いますが、それまでに祖母が「あげた物」に関しては証拠もないのでとりあえず騒ぎ立てることはせず不問となりました。

 行く前は、母から「ヘルパーさんの監督をしてくれれば良い」と聞いていました。まだ、祖母は言動はともかく、料理や洗濯などは普通に出来ているものと母は思っていたのです。
 ところが、実際に私が住み始めてみると、認知症の影響でほとんど出来なくなっており、祖父が代わりにやっていたことが判明しました。また、祖父の間質性肺炎も相当病症が進んでいるとのことで、据置型の巨大な酸素ボンベが導入されました。

 その頃の生活については、以前の記事にも書かせていただきましたので、よろしければお読みくださいませ。

 宗教のコミュニティも、地元から初めて違う地域に移ることになりました。
 とは言え同じ宗教を信奉する仲間でもあるし、特に不安も不満もなく、週に2回の平日夜の集会の時間に合わせてヘルパーさんに入ってもらいました。

 1件残ったWEBの仕事と、個人様からのイラスト案件は人脈の範囲内で細々と請負い、それをアルバイトのようにして、あとは最初に思っていたよりも祖父母の介護に掛かりきりになりました。

 私が、当初の予定よりずっと多く祖父母の面倒を見ることになったからでしょうか。ヘルパーさんを派遣してくれている事務所の所長(女性)が、ある提案をしてくれました。初心者講習(当時はヘルパー2級と言っていました)を受けて簡単なテストに合格さえすれば、うちのヘルパーとして事務所に登録出来るから、やってみないか?と。
 そしたら、おじいちゃんの介護をしている間は、特に他に仕事をしなくても家にいておじいちゃんの面倒を見ているだけでお給料が発生する。もし、その仕事を(祖父の介護が終わっても)続けていく気があれば、そのままうちの事務所のスタッフとしてお仕事を紹介することが出来る、と。

 私自身、その頃「ヘルパー2級欲しいなぁ」と思っていたところだったので、良いお話だと思い、母に相談しました。
 母は「あの所長はなかなかやり手で狡いから良いように使われるだけだ」と私には言って、そのお話は母からお断りされてしまったようでした。所長さんからそのお話を頂くことはその後ありませんでした。

 今思えば、私ももう30前後の良い大人でした。何も母に相談せずとも、ヘルパー2級の資格くらい取って良かったのではないかと思えます。
 まぁ、今言っても仕方のない事ですけどね。もしかしたら母の言うように、良いように使われていた可能性も皆無ではありません。

 ちなみに、祖父母の介護生活に入ってから、20歳前後に痩せてキープしていた体重はみるみる内に学生当時以上に元に戻りました。
 「(渡鬼俳優)じゃねぇよ!」で一世を風靡した女芸人さんに似ています。痩せていた時代は、今振り返ればちょっと新しい青い大人のメガネのあの子の風味があったかも、と思いますが、身長はチビでした。

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