いまなぜ対話をするのか(大澤真美)/ことばの焚き火に掲載されなかったシリーズ②
この本を書いている2021年は、コロナの世界的な流行があり、これまでの「あたりまえ」が一瞬にして崩れ去ったところにいます。
「あたりまえ」を土台にしていた毎日の生活、計画していた未来が思うよう行かなくなりました。では、「わたしたちは、どう生きたらいいのでしょう?」その問いに誰も答えを持っていません。
「何かが根本的に変わらなければならない。」そんなことをみんな薄々感じていそうです。でも、どうやって?
世界はあまりにも複雑になっていて、環境問題にしても、食糧問題にしても、企業や学校、家庭に行ける問題も、色んな要素がありすぎ、絡み合ったものを解きほぐすことは、到底できない気がします。
あっちを立てれば、こっちが立たない。役割や立場で考えると、それぞれに正義があって、それぞれに思いがあって、大切なことを大切にしているだけなのに、どんどん離れていく感じがします。
でも、人間が心の根っこで願うことには、さして違いはありません。幸せでありたい、家族や仲間と笑いあって過ごしたい、ご飯を美味しく食べたい、生き生きと楽しく生きたい。
そこに、対話があります。
自分が感じていること、思っていることは、深く掘ってみると、共通の願いに根ざしています。
わたしたちを分けてしまうことがある「役割」や「立場」を一旦脇に置いて自分の声を出すと、願いが重なって行きます。それと同時に、お互いの違いもわかります。それだけで、ちょっと安心で、ふと気づくと問題そのものが消え去っていることもあります。
人生は本来予測できないものだけれどできるかのように振舞っていたのかもしれません。コントロールができるものと思って、計画を立てていたけれど、前提自体が崩されることがあることを、もう、わたしたちは知っています。
でも、大丈夫。いつも、「いまここ」から、始めればいい。対話をして、違いの奥にある共通の願いに触れながら、それぞれがつくりたい未来の重なりを、共にこの世界に表現して行けばいい。
いや、もうそうすることしかできないところまで来ていることを、わたしたちは気づいていると思うのです。
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