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東京、22時。

乗車している電車と並行して走る、すし詰めの車両を見ていた。今日一日を過ごしてきた人々の、疲れた顔が並ぶ。どの表情も、感情を押し込めた「のっぺらぼう」のようで少し恐くなる。東京、だけではないのだろうけれど、これがこの街の日常だ。そう感じてから、ふと思う。

のっぺらぼうだ、なんてレッテルを貼ってしまった彼らひとりひとりの、今日一日を当然ながら私は知らない。朝のラッシュに加え、夜にまで遅延によりパーソナルスペースをひどく侵された車内で、無である彼らの表情は、まるで東京の代表でもあるかのようによく目にするものだ。本来個人的には人混みも混雑した電車も大の苦手ではあるが、そこに無個性を押し付けてしまうのは短絡的かもしれない。

東京というのは、病んでいる街のようにも思える。雑踏の中、個々が見据えているのは自分のことが中心で、すれ違いざま自分は避けようともせず、他人を吹き飛ばす会社員らしきひとにもよく出会う(荷物が多い私は頑張って避けようとしてもよく吹き飛ばされる)。多少お酒が入れば気が大きくなるのか、日々のストレスを発散するかのように駅のホームで小競り合いになり、どなり散らす喧嘩腰のひともいる。みんながいらついている朝の電車では、舌打ちなんてよくあることだ。

群衆の中にあってこその、匿名性のようなものが恐いとも思う。都会では、街の雑踏に身を置けばどこまでも孤独を感じることができる。人が多い場所でこその、どこにも所属していないかのような焦燥と、孤独。

けれど、不快感をやり過ごそうと無に徹しているかのような人々の、ひとりひとりの一日が確かにそこにはあって、疲れるのは頑張って働いたり、その日を過ごしたからでもあって。そう思ったときどうしてか、彼らが友人や家族と過ごす時間には零しているだろう、笑顔を見てみたいと思った。

余程の偶然のコミュニケーションでもない限り、見知らぬ人の笑顔なんて見ることは叶わない。けれど、ひとの背景のようなものを想像してみたらほんの少しだけ許せるような、許されるような。というのはやや上から目線な物言いかもしれないけれど、勝手な想像を働かせるだけで、少しだけ状況に、日々に、もしかしたら自分にも、優しくなれるような気がした。

そんなとりとめのないことを、ついにスタックした電車の中で、辟易としながらも思う。

東京。

欠点をあげればいくらでもあるけれど、心からは嫌いになれない。その場の感情にだって流されるし、決していつも仏のような平穏な心でいられるわけではないけれど、こうして想像で補って日々を生きていけたら救われる気もするのだった。

(2020.09.17 加筆修正)

#エッセイ #のようなもの

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