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「四季の中でどれが好き?」に秋と春は含まれてないのでは?

 10月半ば、肌寒くなった。「これを読んでいるということは、もう私はこの世にいないだろう・・・」by平成最後の夏。平成最後の夏が意味深なことを残しながら消えるなら、こんな感じだろう。切ない。未練はない。

 秋は過ごしやすい季節。クーラーも必要なくなれば、暖房もまだ要らない。服装だけで体温調節ができるので身軽になった気分。しがらみがない季節はとても好き。

 秋は好き。だけど、「四季の中でどれが好き?」そんな質問をされた時に「涼しくて気持ち良いから秋!」「温かくて過ごしやすいから春!」などと答えてしまうものなら、迫害される。

 あの質問の選択肢は4つじゃない。「夏か冬」の二択を迫られていると同義だと思う。

今日の私、どこが違うでしょうか?問題

 どの季節が好き?(夏か冬だぞ、秋とか春は誰でも好きだからダメだぞ☆)の圧力をいつも感じる。自由な選択肢って、その実すごい狭い選択肢だったりする。

 「わたし、今日ちょっといつもと違うんだけど、どこでしょーか?」

  そんな質問、もはや絶滅危惧種な気がするけど、ちゃんとおります。あだ名はイリオモテヤマネコです(嘘です)

 客観的にみて正解が、2つ以上あったとしましょう。当たり前だけど、「服がいつもと違うこと」が一つ。あとは「アイシャドーが違う」「チークが濃い」などなど。

 懐疑心を持ってかかれば、どれもいつもと違う気が。確信はないけど、髪の毛の色さえ違う気がする。そんなわけはなくとも。

 だが、答えは「前髪を3ミリきった」だったりしてしまう。ほえぇ。一応選択肢にいれてても(後付)「わざわざ聞くくらいだから、これではないよなぁ」としたら、慮外それだったりする。正解だけど、その子にとっての正解は「前髪」なわけです。これはある種の出来レースです。

もはやこれは出来レースでは?問題

 それ以外も正解なのだけど、答えが実は決まってる。できの悪い出来レースをさせられたりすることがある。

 小学生の頃、友達の兄に「方程式」を教えてもらった。xyの代入でございます。だからといって、授業やテストで方程式を使ったらバツにされるあの感覚。あれに近い。「習ってないからダメー」と手をクロスされるのです。答えとして正解でも、不正解にされる。どうも理不尽じゃぁありませんか?

 自由すぎるオープンなクエスチョンは、時に人を苦しめるのです。(もちろん楽しいときも多いのですが)

 もし本当に求めている答えが決まっているのなら、もう少し素直に聞いてもよいのではないでしょうか。

 「夏か冬、どっち好き?!」

 どちかが好きかの話がしたいなら、選択肢を2つにして、そう言えばよいのです。

 狭い質問こそ、会話を広げる一手です。自由すぎる言葉は、往々にして不自由なのです。

 でもそんなめんどくさい質問も好きだったりするので、めんどくさい生き物だなぁと思います。

 ではまた。


(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。